幸せの形って、人それぞれあるけれど、
自分にとってどういう状態が幸せなのか、
本当に自分と良く対話していないと、
迷子になってしまうな~と思います。
私が人生の大半を生きてきた
昭和の時代なんかは、みんなが一斉に
同じテンプレートを見せられて、
こういう形が幸せなんだよ、
とあらゆるメディアやCMで摺り込まれて
それを欲しがるように誘導されていた
時代でもありました。
だから、隣の家が車を買った、
ピアノを買って子供に習わせ始めた
と言えば、じゃぁうちも。となっていたし、
クラスのみんなが昨日のテレビ番組の
話をしていて、見ていなかったり
そういうのにそもそも興味が無かったりすると、
変わった子、と見るような雰囲気がありました。
今でもそういうのはまだ多少は残っている
ところもあるのでしょうけれど、
振り返ってみれば、何とも珍妙な
悲喜劇でもありました。
令和の時代は、これまでの価値観が
大きく変化していっているうねりが
ありますが、みんなと同じなら安心、
という時代でもなくなってきていますよね。
自分の感性を研ぎ澄ませて、
何をしたら自分は幸せで、
何をしたら悲しくて、
どういうものに触れたときに
自分の心は高ぶるのか。
混沌としたうねりの中で、
自分の道を見出していくためにも、
毎瞬、そういうことに気づいている
感性はとても大切です。
時に私たちは、
自分でそう思って選んでいるのだ
と思っていても、
実はそれがメディアや誰かからの摺り込み
であることもままあるし、知らずに
自分にはまるで合わない理想を求めて
大層なエネルギーを注ぎこんでいる
こともあります。
こうあるべきだ、
これはいけない、
これをしなければいけないのだ、
と、とかくガチガチに固めてしまっている
大前提のベースが、実はそんなに
絶対的なものでなかったり、
何十年も固く信じ続けていた信念が
時代の移り変わりや自分自身の変化によって、
生き方にそぐわなくなっていることも
あったりします。
自分を支えているそうしたものは、
普遍的なものなのか、
今の自分を生かすものなのかは
ときどき振り返ってみると良いかな
と思います。
特に、どうしてもこうしなければならない
と思うことで自分が苦しくなっているとき、
なぜそうしなければいけないのか、
その理由をよく掘り下げてみましょう。
なぜそれがどうしても必要なのか。
そうすることで、何を得、
どんな恐れを回避できると思っているのか。
そしてそれは本当にその通りなのか、
これまでやってきて、成果はどうだったのか。
検証してみて、
自分が幸せになっていないのなら、
軌道修正をいれるときではないでしょうか。
それから、
本当はこうしなくちゃいけないのに、
できていないんだよな~と
どこか罪悪感を感じていることも、
それはそれで
ダラダラと不要なエネルギー漏れ
を起こしているようなものなので、
いっそのこと潔く、
これが自分の望んでいる状態であり、
自分は自主的に選んでいるのだ、
と思えば、言い訳は要らなくなりますし、
受動的に流されているのではなく、
能動的に人生を歩んでいる主体者になります。
でも、それを宣言してしまうのも、
どこか気が引けるところがあるから、
やろうとしているんだけれど、
できないでいる、とどこかで何かに対する
希望をつないでいるんですよね。
人間心理って、めんどくさいですね。笑
価値観の転換って、ある意味、
自分は自分が思っていたような存在ではなかった
と認めるところからも起こるように思います。
自分が変わってしまえば、
自分を通して認識されていた世界も、
その瞬間に変わってしまいます。
世界はこれまでもずっとそうだったのですが、
自分はそれを認めていなかっただけで、
その世界を生きていなかったのですね。
それが、幸せなことなのかどうか。
それも自分次第。
生きることの望みが、
人生を紡いでいきます。