自分のことなのに、
他人事のようにふるまう人、
いますよね~。
当事者意識がまるでないというか、
危機意識を持って対応しなければいけない
場面とか、責任を持って事に当たらなければ
いけない場面とかで、
へぇ~、そうなんですか。
それで、どうしたらいいんですか?
何もわからないんです~、と言いつつ、
知ろうもしていないとか。
現場監督とか上役がこんな調子だと、
この会社や現場、大丈夫かな?
と心配になってしまいますよね。
主体的に状況を掴んで動くべきところ、
人から指示が無いとやらない、どころか
指摘されてもやらない。動かない。
自分が何をすべきか、
まるでわかっていない。
セッションでも、たまにこういう方がいて
さてどうしたものか、と思うときが
あるのですが、
状況を丁寧に説いてその方が理解され、
動き出せれば良いのですが、
実はそういう方は、根本的に
自分で決めて動くことを避けている、
拒否しているんですね。
だから、根本的には
状況理解と方法論の問題ではなくて、
本人が主体的であることを「望んでいない」
ということが問題なのです。
というか、望んでいないということを
自覚していないところが問題
と言った方がより正確かもしれません。
というのは、表層意識的には
自分は主体的であることを望んでいる
と思っていて、実はそんな気は
さらさら無い、ということに
気づいていなかったりします。
ストレートに表層意識と深層意識の
望みが一致していればこじれないで、
自分はそうしたくないからしないだけです、
と言えるのですが、
これがズレているが故に、
私はやろうとしているのに
わからない、できないんです、と
ある種「言い訳」が出来てしまうのです。
やりたくないからやらない、ということが、
良くないこと、そういう自分はよろしくない
という意識がどこかにあるが故の
構図でしょうね。
わからないふりをして、
格好の悪い選択をしている自分を隠し、
自他を欺いているのです。
こういう状態にある方を掘り下げしていくと、
わからない、できない、という言葉を
連発します。
本人は真剣にそう思っているのですが、
厳密に体感覚や本人の言葉の明らかな矛盾を
指摘しても、わからない、と
まるで腑に落ちることが無く、
ますます意識は靄の向こうに飲み込まれて
空回りしていきます。
こうなると、
相当に難しい状況になっていくのですが、
最終的には、本人がどうしたいのかな、
という選択の問題になっていきます。
私がその人の人生を特定の方向に
強制する意味もありませんし、
いかなる選択であろうと
その方の意思を尊重するのが
私の基本スタンスなので、
現状とそこから何が起こっているのか、
このままいくとどうなるのか、
というのを説明したうえで
それを選ばれるのなら、
その結果を受け取るのはその方自身なので、
あなたがそれを選ぶならどうぞ、
と言うでしょう。
それ以上でも以下でもありません。
たまに、
本人が表層意識の方向の意思を持つように
させてくれ、と私に要求してくる方も
あるのですが、それはお門違い
と言うものです。
自分の人生は、自分で決めて、
自分で歩むのが原則です。
そこにサポートはすれど、
私は介入はしません。
サポートと介入を混同されている方、
いらっしゃいますね。
本音と建前が違うのなら、
まず掛け値なしの本音に向き合う
必要があります。
それがどんなに無様でみっともない
自分であろうと、向き合えないのなら、
無様な本音を隠したつもりの自分で
この先も生きて行くしかありません。
それで良いんですかね?
という話です。
本音=自分の真実から出発するしかないのです。
本音に蓋をしてきれいごとばかりで
進めようとするから、結局何度も
同じところに戻ってくるのです。
どんなに最底辺の自分と思えても、
逃げないで真実から出発したら、
清々しい、良い面構えの人間に
なっていきますよ。
始まりの地点を間違えないように。