今日はつらつらと自分の備忘録がてらに
最近考えたことなど書いてみます。
先日、ガネーシャ・ギリ先生のヨガで
ややハードなある行法をやった時、
中心が二つある気がする、
とご指摘を受けました。
整ってはいるので悪くはない
というような表現のことも
おっしゃられていたのですが、
こういうのを見抜ける先生は
本当にすごいなぁと思いました。
他の方はどうかわからないのですが、
アーサナや行法に入るとき、私はいつも
二つの中心を重ねているんですね。
一つは肉体の物理的な重心で、
もう一つは、ブログの中でよく書いている
自分の中心です。
後者は物理的なバランスの中心ではないので
体の中のどこ、という場所に見つける
ものではありません。
ただ、自分が深まっていく方向性そのもの
とでも表現したら良いでしょうか。
これが捉えられている人と、
捉えられていない人だと、
深まり方が違うんですね。
セッションしていても、
物理的な重心を意識する人は多いけれど、
存在自体の中心を捉えている人は
稀であるように思います。
頭で考えて見つかるものではないし、
感覚で見つけるにしても、
物理的な体の感覚の延長線上で
探している人が多いのですが、
その方向には見つかりません。
ハートの機能に関係している
のかもしれませんが、
ハートそのものではないし、
いわゆるおへその下の丹田とも違う。
私は武術をやったことが無いので、
武術で言うところの丹田が
何を指しているのかわかっていないため、
何とも言えないのですが、
ただ、明らかに霊的な深まりに
関係するもの、という気はします。
セッションの中でもしばしば、
何となくでいいので自分の中心
と思うところを感じてみてください
と誘導するのですが、
異物が体の中に入り込んでいる人は、
自分の中心を捉えることは
なかなかに難しいです。
在らぬところに意識を一生懸命向けて
中心が捉えられていると思う人もいるし、
どこだかわからずに意識を彷徨わせている
人もいます。
これは、中心を探し、捉えている意識自体が
自分ではない別の存在に取って代わられている
ということを意味しています。
入り込んでいる存在は、
つまりは自分が居るべきでないところに
いるわけで、
これは少し言葉は荒いかもしれないけれど
言ってしまえば、その程度の存在に、
存在の神聖なレベルが捉えられるはずは
ないのです。
そういう存在はそもそも、
自分自身を生きられていないのですから、
いかに偉そうに他者の中で王座に
ふんぞり返っているつもりでも、
逃亡者に過ぎません。
真の主権者が真摯に生の神聖な領域に
向き合うときの清涼さ、力強さ、輝きに
偽物が取って代わることは
あり得ないですよね。
自分の中心を捉えるということは、
自身の在り方を正していくことそのもので、
テクニックの領域の問題でクリアできる
ものではないような気がしています。
中心をじっと見つめながら
奥深くに意識を向けていくと、
まだズレている次元のレイヤーだとか、
クリアになっていないわだかまりの
エネルギーがモヤモヤとしていたり、
何かコードのようなものが絡んでいたり
するのが感じ取れたりします。
セッションではこういうところを見ながら
その方はどの程度のところまで
クリアになられたのか、というのを
見ていたりします。
一段階、上の方が大分クリアになったら、
その下に結構なボリュームの
黒い影が見えたりすることもあるし、
段階が進んで、あれほど絡んでいた
黒くきつい靄がかなりすっきりして
クリアになり、
よからぬトラブルを引き寄せそうな
不穏な気配がもう全く無くなってきた
という方もおられます。
そうなると、その方の存在自体の響きが
深くなるんですね。
そうやって深くなっていくほどに、
いわゆる自分軸が通っていくようになります。
私が言う自分軸というのはこういうもので、
何かピシッと柱のようなものが物理的に一本
通っているというようなものではありません。
ただ、無数の次元のレイヤーが
自分の中でぴったりと収まって貫いていく、
そのものが自分軸なのです。
だから、
何か特定の信念にすがる人のように、
信念が揺らいだら一気に崩壊するような
感じではないんですね。
自分軸というのは、
信念のようなマインドの領域で
できるものではなく、
在り方によって結果的に現れるもの
のような気がします。