つい、カッとして
誰かを責めてしまうとか、
後悔や罪悪感から自分を責めてしまう
ということ、あると思います。
誰かを責めるにせよ、
自分を責めるにせよ、
責めるというのは責任転嫁であり、
逃避です。
本来、自分で受け止め、
責任を取らなければいけない
感情を持て余して、責めるという
行為をしてしまうのです。
どれだけもっともらしい
理由があったとしても、
自身の内に生じたその感情を
受け止め、昇華していく責任が
自分にはあります。
そこは社会的、道義的、法的責任とは
別の話なんですね。
倫理的に許されるべきでないことを
相手がしたのだから、自分の傷ついた
この気持ちの責任を取れ、というのは
違うということなのです。
ここが多分、多くの人が考える
責任の所在と感情解放ワークで捉える
それとは違うだろうと思います。
相手の方にこそ責任があり、
謝ってくれたら、罪を償ってくれたら
自分の気持ちは晴れるのに、
と思ってそれを求め続けていると、
自分の幸せは相手次第ということに
なりますね。
これも言ってみれば、
一種の他人軸ではないでしょうか。
ワークでこのように考えるのは、
鏡の法則がベースにあるからです。
なぜ相手がそのようなことを
私にしてくるのか。
そんなにも私の尊厳を軽んじ、傷つけ、
抑圧し、否定し、無いことにするのか。
その相手の眼差し、態度、扱い方に、
覚えが無いでしょうか。
自分は誰かにそんなことをした覚えはない
と思っていても、では、自分に対しては、
していないのでしょうか?
と聞いてみると、ハッとされる方、
すごく多いです。
他人には非常に気を付けて
失礼のないようにしているのに、
自分に対しては全く尊重に値する
扱いをしていないというのは、
あんまりではありませんか。
そもそも、
自分にそんな扱いをしていることに
気づくことすらないくらいに、
自分に対する尊厳という概念がないわけで、
その在り様が、鏡を通して
相手のあなたに対する認識、在り様として
映し出されているのです。
それに気づくのが自分の責任であり、
あなたの、自身に対する扱いによって
深く傷ついたその気持ちを受け止め、
在り様を修正し、改心することが、
その傷を癒すことになるので、
そこに相手からの謝罪や贖罪は、
一切関係が無いのです。
その体験、出来事を自身の昇華の
きっかけにするかどうかという、
ただそれだけの話なんですね。
不思議なことに、
あなたがその体験を昇華できると、
相手の態度が変化したり、
相手が自分の現実から消えて行ったりして、
あなたの現実はとても調和して
平和なものになっていきます。
相手への怒り、憎しみ、
復讐したい気持ち、償わせたい気持ちが
あるということは、
あなたの内で、あなた自身によって
傷つけられた自分の一部が、
それと全く同じ思い、気持ちを
あなたに対して持っている
ということを意味しています。
償い、改めるべきは、
自分自身であるということが
本当に腑に落ちないと、
たとえどれだけ相手が謝っても、
罪を償ったとしても、
あなたの気持ちが晴れることは
ないでしょう。
鏡の世界に閉じ込められて、
決して勝つことのない
自分との戦いを永遠に繰り返す
人生を送ることになります。
このことは、感情解放ワークの
基本的概念の5つの柱の中でも
特にわかりにくく、受け入れ難い
という方が多いのですが、
この項目を説明すると、
では、相手の犯した罪はどうなるんですか?
それはどうでもいいということなんですか?
と腹の虫が収まらず、そう質問される方が
おられます。
その人が犯した社会的、道義的、
法的罪の対価は、その人の人生の中で
清算されるでしょう。
あなたが自身の責任をしかと果たしたうえで、
なおその人に対してすべきことがあるなら
されれば良いだけです。
それ以上でも、以下でもありません。
これは、頭で割り切るとか、
切り離すとかいうことでは
ありませんよ。
それだとただ蓋をしただけになりますから、
本当に気づきを得たわけではなく、
多分あなたは、
あんな風にならないようにしよう、
と相手を蔑んで、本当に気づくべきことに
気づかないまま、それまでの在り方を
続けていくでしょう。
そういう風にしている方も
とてもよく見かけるのですが、
本当にその体験を昇華することと、
切り離して蓋をすることの違いが
わかるでしょうか?
魂の差し出すメッセージは、
人間目線の常識や倫理からは
測れないのです。