よく、淋しい人は淋しい人を
引き寄せると言いますが、
これは本当にその通りで、
互いに自分の淋しさを
相手に埋めさせようとして、
熾烈なパワーゲームを
繰り広げている様を見かけます。
その人にとっては、
相手がどれだけ自分の淋しさを
埋めてくれたのか、というのが
相手に対する評価基準となり、
相手がそのように動くように、
あの手この手で相手を
コントロールしようとします。
私がこれだけ尽くしてあげたのだから、
あなたも私にこの程度はやってくれるのが
当然でしょう、と無意識にも考えていて、
いかに「コスパ良く」、
自分の目的が達成されるかに
腐心します。
そして、
同じ淋しさを持っている相手も、
全く同じようにしてくるので、
互いにいかに自分が損を被らないように
得を感じるかがその関係性の
「価値」になります。
こう書いてしまうと
身も蓋もないようではありますが、
まぁやっていることは
こういうことなんですね。
互いにそれなりに好意を抱いている内は、
期待感たっぷりに相手に尽くして
「投資」をしますが、
その内に「回収」のタームに入ってきて、
思ったほど相手はそれに応えてくれない
となれば、途端にすごく損をした気持ちに
なってしまいます。
相手に埋めてもらいたかった淋しさは
ますます募り、思うようにならない
相手に不満とともに、怒りが湧いてきます。
少しは私のことも考えてよ。
俺の気持ちを理解しようと思えないのか。
なんて、鏡のこちら側とあちら側で
ズキズキと痛む心を持て余しながら、
段々とその関係性に暗雲が立ち込めてきます。
自分が下心たっぷりに相手を思いやっていた
その行いが、どれだけ本当に相手の心を
理解しながら接していたのかは
全く棚に上げて、
やってあげたことばかりが浮かび、
報いの無いことが悔しくて
仕方が無いのです。
世のあちこちで、
こんなドラマが繰り広げられています。
ひょっとしたら、
あなた自身もそのドラマを今まさに
体験中かもしれませんね。
このドラマの虚しさに
いい加減うんざりしているのなら、
そろそろこの不毛な脚本を
書き換える時です。
相手に求め続けていては、
この現実は永遠に変わりません。
なんせ、鏡なので、
鏡の像に向かっていくら変われ!と
叫んでも、変わるはずないですからね。
その現実が嫌なのであれば、
自分の方が気づいて変わるしかないのです。
それを、相手に負けたと思う人も
結構いらっしゃるのですが、
戦っている相手の正体に気づくことです。
その相手は、鏡に映った自分自身なのですよ。
それがわからないでいるから、
このものすごく物わかりの悪い、
道理のない、世間知らずで理不尽な
「相手」をいつまでも非難し、
変えようとする衝動を抑えられないのです。
まずは相手に埋めさせようとしている
自身の内の淋しさや虚しさ、孤独を、
自分で受け止めていきましょう。
その苦しみを癒してあげられるのは、
自分だけであり、その責任があるのは、
相手やその他の人ではなく、
自分自身なのだと理解しましょう。
だからその人には、
あなたの淋しさを埋めなければいけない
義務なんて、微塵もないのです。
同時に、あなたがその人の淋しさを
埋めてあげる義務もありません。
ここをしっかりセパレートしないと、
絡み合ったまま、地獄が続きます。
その義務を引き受けてあげるのが
愛だと勘違いしている人も多いですが、
それは愛ではありません。
先にも書いた通り、
それは単なる打算であり、依存であり、
愛とは似て非なるものです。
自分で自身の内の淋しさや虚しさ
孤独を癒せないと、あなたが出会う人は
あなたと同じそれらを持った人でしょう。
そして、あなたと同じように、
それらの人たちも、自分の中のその気持ちを
持て余し、どこかで他者にそれを
埋めてもらうことを意識、無意識的に
求め続けてしまうのです。
自分で引き受けない限り、
その衝動から逃れることは不可能です。
なぜかというと、
根本的にそれらの気持ちは、
あなたがあなた自身を見捨て、
離れてしまっていることから来た
痛みだからです。
あなたが見捨ててきた自分に戻り、
離れずに慈しみ、ともに在ることで、
癒えていきます。
そうして満たされたあなたからは、
愛と慈しみが溢れていきます。
それこそが、あなた本来の姿なんですね。