最近、自分が年を取ったせいなのか、
時代の流れのせいなのか、
自分の本質とは相容れないけれど、
何となく世間的に合わせておいた方が
良いものに合わせるというのが
ことの他、難しくなってきています。
自分が何を欲していて
何を望んでいないのか、
若い頃は経験や知見も少なくて
自分がわかっていなかったりするので
合わないものでも受け入れてしまったり
しがちですが、
段々年を取ってくると、
そういうところもわかってくるので、
余計に形だけ合わせるというのが
苦痛になってきますね。
けれども、今のこの世の中では段々と、
こういうときはこうしなければいけない
という縛りも、昔よりは随分緩んできて
いるように思います。
まだまだこの社会も様々な矛盾や
変なしきたり?みたいなものが
たくさんありますが、
それでも、良くなっているところも
あるんじゃないかと思います。
アラフィフの私世代の子供の頃は、
あらゆるものが雁字搦めで、
周りと同じようにするのが常識
という世の中でした。
今は、なんだかんだ言っても、
もう少しその人の個性に寄り添った
体制が随分整備されてきている
のではないでしょうか。
そんなことを思いながら、
時代が移り変わるというのは
こういうことなのか、なんて
考えたりもします。
この時代に生まれてきている
子供たち、若い人たちが、その力を
のびやかに発揮して行けるように。
今を生きる大人たちが、
上の世代が残してくれたものに感謝し、
その本質の価値を、下の世代に
繋いでいけるように。
あらゆる事象の中に埋め込まれた
まやかしや歪みを越えて、
伝わっていく本質の系譜に祝福を。
途絶えたように思えたものも、
本当に時代が必要とするときは、
失われた糸を再興する役目の人が、
ちゃんと現れるものだと思います。
だから、
その役目の人が現れるそのときのために、
その人が来たらわかるように
準備しておいてくれた先人もあるでしょう。
あるいは、
そのようにしておく役目の人が
今いるのかもしれませんね。
時空を越えた情報にアクセスすることは、
「特別な人」だけがすることではなく、
「その必然性を持った人」ができること
なんだと思います。
本当に必要であるならば、
時空を越えた先人たちの息吹に
思いを馳せて、アクセスできるでしょう。
そういう必然性も、
自分自身が混じり気なく、
純粋であるときに自身の内側から
湧き上がってくるものです。
自分の望まぬことを自身に強要し続けていたら、
自分が何者かを見失っていきます。
ものすごく不快なことは気づきやすいけれど、
知らずに自分にものすごく無理なことを
強要するのが当たり前になっている
こともありますね。
自分が何を我慢していて、
何をストレスに感じているのか、
意識を向けてみると、
気づくことがあるかもしれません。
それはそんなに我慢しなければ
いけないことなんでしょうか?
何かもっと自分を大切にする
選択はできないのでしょうか?
自分に我慢を強要することを
止めることが出来ない人は、
どこか、自分自身を生きること自体に
恐れがあるように思います。
自分を生きないようにするために、
お金が、介護が、子供が、等々
一見正当に思えるあらゆる理由を
わんさか見つけて、身動き取れないように
縛り付けているようです。
外的な理由を言う前に、
自分を生きる許可を、肚の底から
自分自身が出せているでしょうか。
敢えて、自分自身を生きない選択をする
というのも、それはそれでアリ
だと思いますが、
意識的にそれを選択している人って
どれだけいるのでしょうね?
ただ、自分の望みについて、
純粋でありましょう。
その望みが、
自分にとっての必然性になります。
そして、その必然性が、
自分の人生を導いていくでしょう。