人生をかけて取り組んできたものに
挫折するというのは、なかなかに
辛いものです。
木っ端微塵に心は打ちのめされ、
相当に深くハートは傷つくでしょう。
その衝撃、その痛みを
如何にかはせん。
そんな体験が私にもあります。
まだその体験を昇華しきった
わけではありませんが、
今の段階で振り返っても、
良い体験をした。
そしてそれは、私には絶対に
必要な体験だったのだ、
と思えています。
ものすごく努力したし、
人一倍の密度で取り組んでも来ました。
それでも至らない。
他の多くの人は、すんなりと越えている
大前提のようなことが、
私にはさっぱり理解できないでいる。
またそれ以上に、
深く尊敬し、信頼していた人から、
「あなたは準備ができていない」
と言われた言葉は、何よりも
私を絶望の淵に突き落としました。
その言葉を言われたのは、2回あって、
1回目の後にもすごく頑張って
何とかその準備とやらを自分なりに
試行錯誤して次に臨んだのですが、
それでも至らず、
再び同じあの言葉を言われたのでした。
もう何をどうしたら良いのかも
わかりませんでした。
考えられ得るあらゆることを
試しましたが、それでもダメで、
深く失意を抱えたまま、
一旦その道から離れることにしました。
それから何か月、何年も
私の心のある部分は凍り付いたままで、
でも、この自分の至らなさを
噛みしめつつ、歩みは止めずにいました。
ある道において挫折したとしても、
人生の歩みは続いていきます。
その道で学んだこと、得たものを反芻し、
さらに考察しながら、遠くから道を眺め、
たまにその道のエッセンスにニアミスしつつ、
あのとき言われた準備とやらについて、
少しでもわかる自分に近づこうと
しています。
そんな中、
セッションで様々な方に向き合うときに、
あの時の師の態度、言葉に
そっくりな言動をしている自分に
気づくことがあります。
どう伝えても、伝わらない。
その在り方をしていたら、見えないのだ、
ということをどれだけ言葉を尽くして
指摘しても、受け取れる在り方が
できていなければ、受け取れないのです。
かつての師には、きっと私が
このように見えていたのだな、
だから何も言えなかった。
突き放すように見える態度しか
取ることが出来なかったのだと
わかりました。
ドツボにはまっている時というのは、
往々にしてこんな感じで、
本人は在り方に気づこうとはせずに、
このドツボからの脱出のメソッドを
求めます。
けれど、そもそも在り方をメソッドで
修正することは不可能です。
だから嚙み合わない。
求めているものが得られなかった、
と言って、さらに無限のドツボのループに
はまっていくのです。
何も受け取れなくなっている
その在り方を、自分でどうにかしないと
いけないし、どうすれば良いのか、
その答えは自分で見つけるほかありません。
どれだけ答えの見つけ方がわからなくても、
時間がかかっても、今生で見つけられずに
死んだとしても、
その答えを自分で見つけるまで、
何度でも人生を繰り返すだけの話。
すねても、呪っても、恨んでも、
それはただ自分の歩みを遅らせるだけ。
人に答えを求めてはいけない
問いというのがあるんですね。
ようやく、それがわかるところまでは
辿り着けたようです。
自分で正解が出せるような
在り方をすること。
そういう在り方ができていれば、
答えは自ずから出ているのです。
そう言えば、師は以前、
正解に自分を見つけさせるのだ、
ということを言ったことがありました。
当時は何のことかよくわかりませんでしたが、
今ならわかるように思います。
間違った在り方からは、
間違った答えしか出てきません。
間違った在り方のまま、
正解を教えてほしい、と言っても、
その在り方で受け取った段階で、
もうそれは正解にはならないのです。
だからすべては自分の在り方ひとつ、
なんだな、と思いました。