誰しも、四六時中、年中ご機嫌さんで
いられるわけでもなく、心身共に
良い時もあれば、バランスを崩す
ときもあります。
波は必ずあるわけなので、
波が立たないように必死になるよりも、
波が立っても、その中で自分なりの
バランスのとり方とか、戻し方を
身につけておく方が大事です。
表面的な体裁を取り繕うことに
執心していると、段々奥深い魂の導きから
自身の在り方が大きくずれてきて
しまいます。
そうしたときに、いつまでも
導きの声を聞かずにいると、
大きな病気をしたりトラブルが起こって
否応なくそれまでの在り方を続けられない
状況になってしまうことがあります。
日々努力されている方でも、
なかなか死角となるようなところに
気付けなかったり、弱いところ、
苦手なところで無意識にも逃げてしまう
ことがあり、
人生のあらゆる面が停滞する状況や
行き詰りを感じる状況に苦悩することも
しばしばあります。
そうしたときに、
それらの状況から差し出されるものに、
どう応答するのか。
ものすごく問われますね。
付け焼刃で場当たり的な対応をしていれば、
導きに対する答えにはならないので
さらに厳しい状況に陥るでしょうし、
目先ではなく、本当に真摯に
己の人生の意義を問い、
嘘偽りなく自分自身に向き合って
勇気をもって行動すれば、
必ず道は開け、祝福の甘露を得るでしょう。
厳しい状況は、自分はダメ人間なのだ
という嘲笑なのではなく、
真剣勝負で自分自身というこの存在に
向き合え、という人生からの叱責であり、
厳愛の励ましなのです。
人生はいつだって真剣勝負だし、
誤魔化しがいつまでも通用するような
ものではありません。
血を吐こうが、手足を失おうが、
それでより深い気づき、愛に至るなら、
導きには躊躇はないのです。
自分の魂が何を求めているのか、
それは人それぞれです。
だから、人と比べても何の意味も
ありません。
一人一人が、自分の奥深くに心を向けて、
自分だけの問いを重ねていくのみです。
以前から書いてきているように、
問う力も大切です。
どれだけ深く問うことが出来るか、
注意深く、忍耐強く自分自身を観察できるか。
焦らず、腐らず、どんな状況からも
学び取る力を練っていくわけです。
そういうことを日々積み重ねてきた人は、
見る人が見ればすぐわかります。
日々の一歩はわずかに見えるけれど、
それを100日、1000日積み重ねたら、
それは実に侮れない力となって
自身の血肉、骨を作り上げていきます。
肉体で言えば、素人とアスリートの差
のようなものです。
そうやって作り上げてきた
精神力、意識の力は、いざというとき、
抜群の安定感と機動性を発揮します。
こういうことは、一朝一夕には
できないのですね。
何かパパっとインストールして
はい、完了!とはならないのです。
能力は、
力だけ、器だけがあってもダメで、
総合的、有機的にあらゆる感覚や
力の動線が繋がっていないと
適切に発揮されません。
そういう接続や微細な調整は、
やはりアナログ的に積み重ねるしか
ないのではないか、と思います。
そして、
ここが見落としがちなのですが、
自分がどのようにしてその道を
通って来たか、という情報の蓄積が、
実は非常に価値のある財産になります。
完成形だけを見てもわからないことが、
その成り立ちを見ることで理解
できたりしますよね。
それと同じことです。
成り立ち、構造を知っているからこそ
読み解けるものがあり、理に適った
対処の仕方ができるわけです。
だから、答えだけもらっても
ダメなんですね。
軽薄短小がもてはやされ、ますます
自分で考えることが少なくなった昨今、
そこのことがわからない人が多い、
と感じます。
見てわかることがわからない、
というのは、そのことを見て取るだけの
基礎的な情報が自分の中に無い、
ということを意味しています。
まずはそういう基礎を自分の中に
叩き込む段階が必要ですね。
それが、守破離の守の段階です。
たくさんたくさん学ぶこと。
注意深く観察すること。
忍耐強く練り上げること。
打ちのめされ、挫折しても、
歩みを止めないこと。
無様でも、自分に嘘をつかないこと。
僅かな積み重ねを、侮るなかれ。
それは後に、想像もしないほどの
金(きん)となって返って来るでしょう。
あなたの歩みに、祝福を。