師匠から弟子に、
紙などの記録媒体を使わずに
直接口頭で伝えることを
口伝と言いますが、
これについて思うところを
今日は書いてみたいと思います。
私は今生では師弟関係というのは
経験していないので、
まぁど素人のたわごとくらいに
思って読み流していただければ幸いです。
人に何かを教えるときに、
なぜ記録媒体を通さずに口伝にするのかには
とても合理的な意味があると思います。
人によって、発達している感覚が違うので、
見た瞬間に同じことが再現できる人や、
一度聞いたものは瞬時に理解し、
再現できる人もいます。
私自身は、口で言われたことを
即座に理解する能力が低くて、
一旦言葉に落としてから理解する
というめんどくさいタイプです。
私のようなタイプは、
口伝なんてされたらそれこそ地獄ですが、
口伝は、それを行っている感覚を
直接インストールするようなもの
なのだろうと思います。
記録に落としてしまえば、
そこに記録しきれない膨大な情報が
抜け落ちていきます。
だから、
口伝でしか伝授できないものが
必ずあるんですね。
ただし、世の中には
限られた情報から元の情報を再構築する
能力が高い人もいて、それがいわゆる、
一を聞いて十を知る、みたいな感覚が
ある人です。
そういう人にとっては、
たとえば聖典に書かれたヨガの技法などを、
普通の人では読み取れないような
行間を読み取って、かつての行者たちが
わかる人にだけわかるように残した印を
鮮やかに辿れるのです。
話は前後しますが、
口伝の良いところは、伝える相手に合わせた
伝え方が出来ることです。
受け取る相手の理解度、習熟度によって、
同じようなことを伝えるのでも
違った深さ、違った切り口で伝えられるでしょう。
そうして師匠は、弟子が確かに
伝えたことを受け取ったのかどうかを
確認しながら、そのフィードバックを基に
さらに教えを展開させていきます。
人の器も様々で、教えたいことを受け取る
器の弟子になかなか出会えないということも
あるでしょうし、
何人もの弟子の中で、
師匠の持っているエッセンスのある部分を
特化して深く習熟し、展開させていく
弟子もあるでしょう。
どんな教えも、
同じ教科書、同じカリキュラムで教えて、
同じタイミングでお免状を発行できる
ようなものでは無いと思うのですよね。
その人の中で本当に生きた智慧として
定着していくように教えようと思うなら、
それこそ、
細やかに弟子の状態を確認しながら
根気強く教えていくしかないのです。
同じテキストとカリキュラムで
教えることが出来るのは、
本当に基礎の基礎のようなところで、
それはこれから始まるその道の
必要最低限の共通知識や認識を
習得する段階です。
そこからがようやく始まりなわけです。
その知識や技術を使って、
自分は何を表現して行くのか。
その先の道を自分で切り開いて
いかなければなりません。
道を歩むことで自分と対話し、
深く自分自身を知っていきます。
そうやって、教えを自分の実体験の中で
有機的に展開させていくんですね。
すると、必然的にその道は
自分オリジナルの表現や技術が生まれてきます。
そうやって己を磨き、
技を磨いてきてはじめて、
奥義の神髄が理解できる段階に来ます。
私は奥義を授けられるような
体験をしたことが無いので
実際のところはどうなのか
わかりませんが、
それは口伝であろうと
記録媒体を通したものであろうと、
結局はどちらでも良いだろうと思います。
なぜなら、その段階に来た人にとっては、
伝えられたほんのわずかなエッセンスに
触れるだけで、わかるからです。
つまり、行間を埋め合わせて
情報を再構築するだけのあらゆるパーツが
既に揃っているからです。
逆に、それができないのなら、
奥義を伝えられても、
何ら意味を成しません。
奥義というのは、
何やら仰々しい秘伝の箱に入った
巻物のことではなく、
道を究め抜いていったときに
辿り着く「自明の理」なのではないかと
私は思っています。
だから、極め抜いた達人にとっては、
伝えられるまでもないこと、
かもしれません。
そう考えると、
師匠から奥義を伝授されることを
欲するのは、ある種の依存心で、
願わくば、
自ら極め抜いて、その「自明の理」に
辿り着かんというくらいの
気概を持ちたいものだと
思ったりしました。