本人はすごく苦しんでいて、
長いこと悩み、もがいていたとしても、
深く掘り下げていくと、
実はそれがいつぞやの人生で、
自分自身で設定したプログラムだった、
ということがあります。
例えば、自分の能力を絶対に発揮
できなくなるようなパートナーシップを
構築してしまう人は、
別の人生で、
能力を発揮したが故に
大切な人を失ってしまった
ストーリーを持っていて、
絶対に能力を発揮しないような
パートナーを自ら選んでいたとか、
女性を物のようにしか扱わない
男性たちへのものすごい恨みと憎しみから、
真実の愛を知ることが出来なくなる
呪いをそうした男たちにかけて、
それがまた自分自身にも鏡として
かかってしまっているとか、
掘り下げていくと、
普段の自分の意識では、
想像もしないようなストーリーと
設定が出てきて驚愕することが
あります。
こんなにも自分の人生に苦難ばかりを
与える神を恨んでいたのに、
実はそれが自分でやっていたことだった、
なんて、恨みのやり場に戸惑うほどです。
こういうのは、頭で、え~っと。。。
と考えても、決して出てくるようなもの
ではなく、自分自身の深いレベルに
心を澄ませていくことで、
ようやく秘密が明かされます。
そういうのが出てくるタイミングも、
その人の時が満ちたとき、
ということになるのでしょうが、
自分の人生に設定した呪いが解けるとき、
というのがあるのですね。
セッションしていてよく見かけるのは、
自分が犯した罪ゆえに、
自責の念に駆られ、
ずっと自分を罰し続けている人がいます。
その思いは人生をまたいで
自分を縛り続け、のびのびと
その人本来の人生を生きることを
強烈に制限していたりします。
いくつものそういうケースを見てきて
思うのは、罪を罰するのは、
誰かに罰せられているケースよりも、
圧倒的に、自分で自身を罰している
ケースが多いです。
やはり、どんなにうまくやり過ごした
と思っていても、自分には嘘は付けない
ということなのでしょうか。
心に刺さった棘は、
何十年、何百年経っても、
魂を縛り続けるのですね。
どれだけ自分を罰し続ければ、
自分を許せるようになるのか。
自責の念に駆られる魂を解放する
カギとなるのは、刑期(時間の長さ)
ではなく、
本当にその人が起こった出来事と
相手に向き合うことが出来たかどうか、
ということなのだと思います。
だからセッションでは、いかに辛くとも、
その心の痛みを受け止めて、
相手に対峙するよう誘導していきます。
これまで度々お伝えしているように、
自責の念は、逃避の一種です。
自分を責め苛むことで、
耐え難い混乱や心の痛みを紛らわせて
いるだけです。
だから、
どれだけ激しい自責の念を抱いたとしても、
それでは相手への償いにはならないのです。
故に、
自責の念を越えて、自身の心の内に
嵐のように荒れ狂う痛みを統合し、
相手に対峙し、対話することが
必要なのです。
それが出来て、
本当に和解できたとき、
地獄の業火に焼かれるような
その苦しみの刑期が終了します。
ここが不完全だと、
ずっと持ち越していきますね。
見たくない自分、
受け入れがたい出来事、
認めたくない現実。
それらに対峙する苦しみを、
どれだけ引き受けられる
自分になっているのか。
どれだけ苦しくとも、
自分を責めている方が楽、
という苦しみが、あるんですね。
何十年、何百年の責め苦も、
終わるときはほんの一瞬です。
ただ、自身の覚悟あるのみ。
いかなる世間体や見栄などよりも、
ただひたすら、自身の真実にのみ
コミットメントしたとき、
開けていく扉があります。
呪いを解くのは、
苦しんだ時間の長さではなく、
ひとえに自分自身の在り様だということを
どうぞ覚えておいてください。