日々、次元の狭間にゆらゆらしながら、
と同時に、肉体的にも微妙なお年頃で、
そういう方面からも揺さぶられつつ、
若い頃と同じようにはいられないんだなぁ
なんてことをつらつらと考えたり
しています。
巷では、アンチエイジングとか、
若さがもてはやされる空気がありますが、
どんな風によく老いていくのかという
情報は、それにくらべると
とても少ないように思います。
もちろん、
素敵に生きていらっしゃる先輩方が
私の周りにもたくさんいらっしゃいますが、
では自分はどんな風に老いをデザイン
していくか、というと、
とんとイメージが湧きません。
老いは必ずしもネガティブなもの
ではないはずなのだけれど、
40代から50代は、肉体面の変化が
すごく大きいので、
それを調整しながらバランスをとるのが
すごく難しく感じます。
人生の後半戦を、どんな風に
生きて閉じたらいいだろうかと思う時、
これまでセッションの中で出会った方たち、
特に亡くなった御霊たちの人生の最期を
思い起こします。
病気や事故で亡くなった方もあれば、
自ら死を選ばれた方もあり、
戦争で亡くなったり、
あるいは、誰かに・・・と言う方も
ありました。
セッションで出てくるのは
全て、順調に帰るべきところに
帰れなかった方たちなので、
色々なご事情があるわけですが、
そういう人生に触れるにつけ、
いかに人生を豊かに生きるか、
ということを思います。
ご先祖様たちのヒーリングをするときも、
大体最後に所望されるもののリクエストを
お聞きするのですが、
温かいご飯やお味噌汁、思い出のお菓子、
温かいお風呂の他、畳を所望された
方もあり、人間らしい最期を迎えたかった
のかなと、死の尊厳のようなことを
思うきっかけになったりもしました。
私たちの魂の中には、
今生だけではなく、様々な人生の
記憶が蓄積されています。
私自身も、いくつもの人生の記憶に
アクセスしていますが、最初に見た
いわゆる過去世と呼ばれる人生は、
山の中を逃げて行く落ち武者でした。
最期は一人、林の中で死んでいくのですが、
血で血を洗う戦いに明け暮れた人生でした。
そうかと思えば、
どこかの国の提督の娘に生まれ、
政略結婚で思い人と引き裂かれ、
結婚生活はうまく行かずに若くして
病床でかつての思い人を思いながら
死んでいく人生があったり、
平凡な農夫として生きて、
最期は家族が出かけている間に
一人、ベッドで静かに亡くなっていくとか、
他にもたくさんの人生の最期を見てきました。
セッションで見た他の方の人生の最期中で
最も印象的だったのは、
詳しくは書けませんが、
人とは違った、重い業を背負う家業を継いで、
日々その人なりに自分の仕事に向き合い、
一切の遊びのない、修行者のような人生を
歩まれた末、
その仕事の引退の日、近所の人が
お祝いに鯛を届けてくれたそうなのですが、
その時には縁側で一人座って、
そのまま逝かれていたというストーリーが
ありました。
とても静かだけれど、
内面的には相当な葛藤があったろう人生を、
生き切られたのかな、ととても厳粛な
気持ちになったのを覚えています。
人の誕生も死も、
私たちがこの世界に来る前にいた場所の
エネルギーに濃密に触れる体験なので、
常とは違う感覚が付きまとうものですが、
人生を本当に生きるには、
どうしても、こちらの世界だけではなく、
あちらの世界のエッセンスもないと、
不完全なものになるような気がします。
あちら側に引っ張られ過ぎても
問題ですが、あちら側のエッセンスが
全くない人生と言うのは、
まるでロボットのように無機質で、
それは既に人間の人生とは言えない
ような気がします。
あちら側のエッセンスは、
ある意味、人生を豊かにし、
人間としての情緒や情感を育む
非常に重要な要素であるように思います。
これは、文化という面でも
一考すべき点でしょう。
現代日本社会は、そうしたエッセンスを
拒んで久しいですが、そうした意識を
持って生きる人が、とても少なくなった
というのは、否定できないと思います。
人生の後半戦は、
あちら側に帰っていく準備もあり、
あちら側のエッセンスをいかに、
この世界の人生に矛盾なく統合していけるか
と言う部分がカギになるような気もします。
ここがうまくできると、
ものすごく人生は深まり、豊かなものに
なるような予感がしています。
あくまで、私の場合ですけれど。