愛を受け取るということは、
そこに抵抗が無い人にとっては
何のことはない、ごく普通のこと
当たり前のことなのだけれど、
こじれにこじれてしまっている人
にとっては、本当にこれが
辛くて辛くて仕方がないものです。
喉から手が出るほどに欲しいのに、
どれだけ求めても受け取れず、
荒涼とした砂漠を一人行くような
虚しさと孤独、絶望感を抱えて
途方に暮れている人も多くいます。
こういうのも、ラマナ・マハルシ
に言わせれば、
恩寵の海で喉が渇いたという
魚の様だ
ということになるのでしょうが、
本人にとってはいたって深刻で、
決して満たされることのない
渇きの中に生きるのは、
まさに地獄のように感じるでしょう。
けれど、それもこれも、
気づいてしまえば、すべては
自作自演の悲劇(喜劇?)なわけで、
そのことにいつ気づけるか、
認めることが出来るか、
と言うだけのことなんだと思います。
それまで、如何にこのテーマを
誰も解けない難問にしておくか、
複雑怪奇なトリックを無数に繰り出しながら、
自分には到底手の届かない問題に
せっせと作り込んでいくのです。
もう10年くらい前にセッションした
ある方は、自分のことなんか誰も
理解してくれない、と言っていて、
理解してほしいのかと思いきや、
実は誰も理解できない自分でいることで、
自分は特別な人間なのだという
付加価値をつけていたかった、
と言うケースがありました。
だから、理解されない苦しみを
解決してしまえば、その「特別な自分」
と言う付加価値が消えてしまうので、
決して癒されてはならないと、
ありとあらゆる抵抗をします。
本当にこのパラドックスから
本人が抜け出したいと思うのなら、
なぜ特別な自分でなければいけないのか
というところを掘り下げていくことも
できたのでしょうが、
この時はまだ、そこまでは
望んでおられなかったようです。
苦悩する自分が特別に高尚で、ある種
美しいものとして、その人の中では
差別化されていたのでしょう。
こんな風に、一見苦しみの元凶
と思えるようなものにも、
その人なりに持っているメリットがあり、
そのメリットを手離していくことへの
心からの納得が無いと、癒えて行くことは
ないんですね。
その人の在り方を決めるのは、
その人自身以外にあり得ないので、
いかに優秀で力のあるヒーラーや
セラピストであろうとも、
その領域を犯すことは、不可能です。
逆に、それが出来たらヤバイ
と思いますけれどね。
話は大分それてしまったけれど、
セッションしてても、
頑として愛を受け取らない人、
結構いますよね。
絶対に受け取らないぞ!と、
全身ハリネズミのようにして
戦闘態勢になっている(ように見える)か、
何だかんだと言い訳をして
つるりつるりと逃げて、
はぐらかしていく。
こういう状態の方に、
愛を受け取らせるなんていうのは
どれだけ頑張っても到底無理な話で、
出来ることと言えば、
今自分がどんな状態にあるのか
と言うのを伝えたり、自ら気づけるように
促したりしながら、自分で在り方を
決めてもらうくらいでしょう。
そういう方たちをたくさん見てきて思うのは、
彼らは何かと戦っているのです。
そして、その戦いのケリの付け方を
こじらせているんじゃないかな、
と思います。
自分が戦ってきたものが何なのか、
見ている視点をほんの少し変えることで
全く別のものに気づくはずなのだけれど、
それをしてしまうと、
今まで戦いをベースにしてきた
自分の人生ストーリーの筋書きが
根底から覆ってしまう。
自分は正しいけれど無力な悲劇の被害者で、
相手は理不尽に権力を振りかざすとんでもなく
横暴な悪の権化の加害者で来たのに、
その役が変わってしまった時、
振り上げた拳をどう収めたらよいのか、
抵抗や怒りを糧に人生を推進してきたのに、
それが無くなってしまったら、
これから自分はどう生きたらいいのか。
全てが変わってしまうというのは、
そういうことなんですね。
そういう人生に、移行しても良いのかどうか、
というのを、何度も繰り返し問いながら、
戦いを止める潮時に向けて準備していく
ということもよくあります。
そんなにも愛されているのなら、
遠慮なく受け取ってしまえばいいのにね。
と言うくらいに簡単なものではない
ケースもあるということです。