近頃はスピ業界でも内観の重要性が
言われることが多いようで、
それはそれで良いことなんじゃないかと
思っています。
ただ、何をもってして内観というか、
と言うと、なかなかに難しいところ
でもあるな、と思います。
たとえば、
ある出来事について、
あーでもない、こーでもない、
あれはこうだった、次からはこうしよう
と頭であれこれ考えて整理し、
納得するのは内観なのか。
整理もできないまま
ただグルグルと考えているのは?
あるいは、
あぁ自分はあの時、すごく傲慢だったんだ、
あの時の自分は良くない、などと
ジャッジメントし、ラベルを貼ったら
内観できたことになるのか。
多分、多くの方の言う内観は、
上記のようなものが多いのではないかな、
という気がします。
つまり、頭でやる、マインドレベルの
思考の整理ですね。
その時の自分の気持ちも、
多分意識を向けているかもしれませんが、
感情を思考で整理し納得させて
収めているのだとしたら、
多分その気持ちは繰り返し噴き出してきて
そのパターンはなかなか変わらないのでは
ないかな、と思います。
というのも、感情のエネルギーは
根本的に、思考では対処できないからです。
だから完了しないで、熾火がいつまでも
心の奥でくすぶっていて、
何かの拍子にそれがはじけて
爆発するんですね。
感情解放ワークでも、
掘り下げをしますが、頭だけで掘り下げる
ことはしません。
必ず体感覚とともに、
その時自分はどんな気持ちだったのか?
という感情にフォーカスしながら
掘り下げていきます。
苦しかったり淋しかったり怒っていたり
とても傷ついていたりするわけですが、
そういう生々しい感覚を避けないで、
ゆっくり深い呼吸をしながら
受け止めていきます。
そうして、緩んだところからさらに、
そこに在るニーズや恐れ、痛みを
深く掘り下げて行くんですね。
そのようにしていくことで、その出来事の、
当時は見えなかった側面というのが
開かれていきます。
自分はこんな風に感じていたんだとか、
相手はこんな気持ちだったのかとか、
だからこの出来事が起こるべくして
起こったのだな、というのが、
マインドの思考のレベルではないところから
はっきりとわかるのです。
あぁ、そうだったのか、と、
それは深い納得感とともに、
腑に落ちていきます。
と同時に、変容が起こっているのです。
それが起こると、
あれほど憎み、恨み、決して許さない!
と思っていたようなことも、
その恨みがきれいに消えてしまったり、
永遠に背負っていくかのように感じていた
十字架が、霧散してしまったように
感じたり、
解決の糸口も見えず、
途方に暮れていた出来事も、
問題ではなくなっていたり
するんですね。
そんな風に、
本当に自分や、自身に起こった現実を
深く見つめることで、何がしか
自分の中で絡み合っていたものが解け、
より深まっていくようにするのが、
内観の本来の意義であるように思います。
頭で整理納得して収めているのなら、
それは単なる蓋であり、
却って気づき、深まっていくプロセスを
妨げるものになってしまうのでは
ないでしょうか。
私たちは思考中毒になっていて、
深く感じる替わりに考えることで
わかったつもりになって
やり過ごしているところが
大いにあると思います。
生々しい痛みを感じるよりは、
その痛みについて思考していた方が
幾分、苦しさは減るように感じられるので、
散々そのことに向き合っているという
錯覚を持ちながら、実は統合から
遠ざかっているということもあるのです。
無意識に痛みを避けようとする
自身の心の動きに気づいていましょう。
核心は、その痛みの方向にあるのです。
私のお伝えする感情解放ワークでは、
まさにその痛みの中心に下りていきます。
それができるように、様々なテクニックを
使うのですが、正しくその核心に降りて行くと、
その痛み、その闇を突き抜けたところに
二元性を越えた愛、或いは光の世界が
開けていきます。
内観する習慣を持つのはとても良いことですが、
それをすることで自分の意識が深まっているのか、
ただ理屈で感情をねじ伏せているだけなのかは
注意深く見て行く必要があるのではないかな、
と思います。