自分軸、大事ですよね。
ふらふらしてしまいがちなので、
自分軸をしっかり持ちたい!
と思っている方も多いと思います。
けれど、具体的に、
どういう風にしたら自分軸を
持てるようになるのか、
漠然としている方がほとんど
なのではないでしょうか。
自分の考えをしっかり持っていると
自分軸があるように見えますが、
よくよく見ていくと、その自分の考え
と思っていたものが実は、他人の考えの
受け売りだったり、なんてこと、
よくありますものね。
自分もその考えに完全に同意しているから
それも自分の考えだ!というのは
ちょっと考えが浅いと思います。
要は、その考えが自分の血肉になった
ところから発しているのかどうか、
ということが大事であって、
同じ言葉でも借り物の付け焼刃では、
発したところの響き方が
全然違います。
饒舌に語る必要はないのです。
ただ、ぽつりと発した一言に、
魂を撃ち抜かれたかと思うくらいに
衝撃を受けること、ありますよね。
まぁそれはともかく。
個人的には、自分軸の基本は
自分の感情や身体感覚だと
私は思っています。
自分が今何を感じているのか、
というところを自分でしっかり
認識しているところから
それに対して自分はどう在るのか、
というアクションが起こります。
そのベースになる、
自分の感覚を封じていたり、
軽んじ、おろそかにしてスルー
していたりしたら、
自分はどう在るべきなのか、
というところを自分で決めることが
できません。
そうなると、必然的に、
誰かの判断に委ねるとか倣うとか
するしかなくなります。
そういうところから、
どうして自分の考えを持つことが
できるでしょうか。
自分がここに生きて、
感じ、思うことから行動し、
フィードバックを得る中で
自分なりのバランスや軸、
存在意義を見出していくんですね。
だからこそ、
自分なりのこの世界での立ち方をするし、
歩き方、呼吸の仕方をするわけです。
そういう、存在全体の在り方から
軸が生まれて行くわけで、
頭でっかちに、信念を強く思い込んで
しがみつくことで、軸ができる
わけではないと思います。
そういうのを軸だと思っている人も
いるとおもいますが、自分の生きた感覚
から分離している信念の軸は、
非常に硬直していて、却って
生き辛くなるのではないでしょうか。
自分軸がないと感じている人は、
往々にして自分の感じているものを
信じていません。
自分の感じているものが
「正しいのか、間違っているのか」を
すぐに人に確認したくなる
傾向があったりします。
そして、人と同じだと安心し、
違っていると不安で不安で、
自分の感覚を不採用にして、
人の感覚を「正解」だと思って、
その感覚を自分の行動基準にして
そっくり丸呑みしたりもします。
だから、自分が無いんですね。
こういうことを常日頃からやっていると、
自分の感じているものなんて、
注意を払うこともしないでしょうし、
常に意識は、人はどう感じ、思っているか、
どう行動しているのかをチェックして
自分がそれと違わないように
ということに神経を注いでいるでしょう。
こういう人が自分軸を持つには、
まずは、自分の感じていることを
スルーしないで、まずは在るがままに
受け止めるようにすること。
そして、人と違うことの恐れを
統合すること。
自分の感覚から判断したことの結果を
きちんと引き受けることが
必要でしょうね。
自分を信じない人の多くは、
失敗したくないという恐れと、
過去に自分を信じて失敗したという
痛みを持っていることが多いです。
だから、もう二度と自分なんか
信じないって思ってるんですね。
そういう状態で、
自分軸を持とうとすることの
矛盾がわかるでしょうか。
自分軸を持ちたければ、
自分と和解しなければいけませんよね。
自分に不信を抱きながら、
他人の考えをインストールして
自分軸を持とうとすることの
滑稽さに気づくように。
無様さも、惨めさも、失望感も
無力感、無価値感も、栄光も
全部引き受けて、
ただひたすらに、自分自身の命を生きよ。
転びながら、笑いながら、泣きながら。
そんなことを思いました。