自分の弱さを心底受け止め、
統合できている人は、弱い人に対して
優しくできます。
一方、
自分の弱さを憎み、拒絶する人は、
弱い人を憎み、攻撃するか、
不快な気持ちになりたくなくて、
そういう人から目を逸らします。
直視していたら、
自分の心が辛くなるから、
どうにかして自分の世界から
消したくて仕方がないのです。
そういう人は自分が弱いことも、
弱い人を見ることも受け入れ難いので、
殊更に強く在ることに固執したり、
何らかの力をふるうことに
執心しがちな傾向があります。
そうなると、一見、
その人は強く見えるわけですが、
実際その人の深いレベルでは、
弱さを非常に恐れています。
けれども、
本人は自分が弱さを恐れているなど
ほとんど自覚はないでしょう。
恐れることは、弱さの証であり、
その人は弱さを拒絶しているわけですから、
自分の中に恐れがあったとしても、
認識できないように封印してしまうからです。
自分は強いと思い込んでいるけれど、
弱い人を見ると虫唾が走る、というような
心当たりのある方は、よくよく
振り返ってみると良いでしょう。
自分は弱さを恐れてはいないか?と。
弱い自分で在ることに、
耐え難い屈辱や悲しみ、無力感や惨めさ、
無価値感などを感じて、それに飲み込まれて
しまうのではないか、という恐れが
あるのではないでしょうか?
これらの恐れは、
自分の弱さを分離し、拒絶している人の
特徴と言えます。
本当に強い人は、
自分の弱さを直視できますし、
恐れません。
それらの感情に飲み込まれることなく、
受け止め、統合し、再び立ち上がる術を
知っているので、恐くはないのです。
だからこそ、
弱い人に感情を乱されることなく
寄り添い、本当に必要なときは
サポートすることもできるし、
手を出すべきでないときは、
余計なことをしないで
見守ることが出来ます。
弱い人を見たときに、
自分の中に駆り立てられる
感情があると、どうしても
それに煽られてしまいがちで、
本当に適切な対処はできません。
自分の弱さを統合できていないと、
相手の中に、その状況を乗り越えていく
力があるように、どうしても
見えないんですね。
彼らは鏡なので、
力がないように見えるということは、
自分にも克服する力を感じられていない
ということでもあります。
けれども、
自分の弱さを統合できていると、
相手の中にも弱さを統合していく
力を見て取ることが出来るので、
信頼して見守っていられるのです。
相手の内なる力を、
頭で思い込むのではなく、
本当に見て取って信頼する眼差しを
向けるということは、それ自体が
何よりの励ましとなるのでは
ないでしょうか。
そういう眼差しの力は、
口先だけで信頼するとか
あなたには力があると力説する言葉
よりもはるかに力強く、
相手の心に響きます。
そういう眼差しを受けながら
過ごせた人は、幸運ですね。
私たち自身が、そういう眼差しを
持てたとしたら、周囲の人にとって
あなたという存在は、かけがえのない
恩寵となるでしょう。
だから、
自分自身の弱さに打ちひしがれることなく、
恐れず、直面し、惨めさも辛さも悲しみも
無力感・無価値感も、在るがままに受け止め、
敵視もせず、分離もしないで、
生きてあげましょう。
そうすると、それらはもう、
あなたの心をかき乱さなくなります。
弱さ自体は、あなたをダメにはしません。
けれども、弱いことによって
体験した辛さを拒絶し、
在るがままの自分を見限ることで、
あなたは深く傷つき、
彷徨うことになるのです。
弱くても辛くても、
その自分を引き受け、生きることで、
道は開け、人生はより味わい深いものに
なっていきます。
このことを勘違いして
自分を分離させてしまう人の
なんと多いことか。
これを読むことが出来た人は、
どうぞ自分を見限ることがないように。
あなたのすべての要素に祝福を。