依存癖のある人って、
気持ち悪いくらい、みな同じ傾向が
あるな~と思ったので、
今日はその辺りについて書いてみます。
依存についてはこれまで何度も
書いてきているのですが、
思いつくままに書き出してみると、
自分が嫌い
自分を信じていない
自分がお留守
いつも自分よりも頼れる何かを探している
とまぁ、この辺は鉄板ですかね。
これらは繋がっていて、
何かしらの体験から自分が信じられなく
なって、そんな自分が大嫌い、
だから自分で在ることが辛くて
いつも自分を否定し、
自分でないものになろうとしている。
そうなると、自分の深奥からやって来る
導きや生きる力に繋がれなくなって
しまうので、いつもエネルギー不足で
不安で不安で仕方がない。
だから、ピタッとくっついて
(寄生して)質の良いエネルギーを
吸い取れそうな人、
自分の代わりに人生をより良い方向に
導いてくれそうな人を探している。
そういう人がいないと、
不安で不安で、どう生きたらいいのか
わからないし、混乱してしまう。
でも、そういう人が側にいてくれると
すごく安心。なんでもその人に
聞いてその通りに生きていれば
間違いないから、常に意識は
その人の一挙手一投足を追っている。
こんな感じでしょうか。
私は、セッションでもブログでも、
こういうのは不健全であり、
絶対に自分から離れてはいけないし、
自分自身に戻らない限り、
幸せはないとお伝えしてきています。
私のセッションは、
その人自身に戻るために様々な
働きかけをしているので、そもそも
そういう意志のない人にとっては、
意味のないものになります。
人生に起こるあらゆる不調和や苦しみは、
全てここに端を発していると
私は思っていて、実際、掘り下げていけば、
ほぼすべてがここに帰着します。
だから、自分自身と和解し、
信頼関係を深めていくほどに、
人生のあらゆる局面は調和し、
生きやすくなっていきます。
様々な霊障の類も、
実は自分をお留守にしているが故に
隙だらけになっていて、
入られたい放題になっている
ということもあるんですね。
自身の人生の主として、
常にしっかりと自分自身に収まっていないと
フラフラぐだぐだな人生になってしまいます。
そういう依存傾向のある人が
特に注目する人の話を聞いているときの
様子がまた特徴的で、
まるで魂を吸い取られたかの如く、
相手にのめり込んでいくような感じで
前にめりになる一方、
自分がお留守になるんですね。
そういう人を見ていると、
人の話を聞きながら、
自分が何を感じ、何を思っているのかが
全く把握できていない様子が
見て取れます。
自分という主体が不在で、
人の話を丸呑みしてそれと一体化
しているかのようです。
多分本人は、相手の話に
その通りだ、自分も全く同意している
という感覚で聞いているのだと思いますが、
そもそも意見を同じくする前提の
自分の意見がないので、
何となく相手の言っていることが
正しそうだし信頼できそうな感じなら、
ほぼそのまま丸呑みして
それを自分の考えだとするでしょう。
けれども、深いところでは
何もわかっていないので、
表面的なところだけを追いかけて、
その人に追随している自分が正しく、
そこから外れた自分が何だか間違っていたり
劣っていたりという風に感じてしまったりも
するのです。
そういう目指す目標の様な人がいれば、
自分もそのようになればきっと
「正しく」生きられるはずだと
信じているので、
何も考えず、一生懸命その後姿を追いかけて
なぞろうとします。
最初はそれでも良いのかもしれませんが、
その歩みが自分にとって、
適切なのかどうかを自身の深奥に
問うこともないのだとしたら、
その歩みは早晩、破綻するでしょう。
人は、必ず自身の内に
自分だけの道を示す羅針盤を持っています。
その羅針盤と正しく対話する方法を
学ばねばならないし、
それをしないで人生を歩もうとするなら、
繰り返しその学びを差し戻されるでしょう。
どれだけ自分を信じられなくても、
自分が嫌いでも、
自分を生きるのが辛くても、
必ず人は、自分自身に戻らねば
なりません。
あとは、いつ戻るのか、
どのくらい、自分自身との対話を
深めて行けるか、というだけの問題です。
何かや誰かに依存したまま
生き抜いていけるほど、
人生は甘くはありません。
そして、自分自身と対話し、
その人生の神秘に触れることほど
甘美なことも、またないのです。
自分はいかに生きるのか。
よくよく、問うてみることです。