赦した方が、自分も楽になるし
もう心を煩わされることのない
自由がやって来るのはわかっているけれど、
でも、ど~しても赦せない、
ということ、あるんじゃないかな、
と思います。
私自身、先日ようやく解けた
母への怒りも、そんなものの一つで、
これだけワークをやってきても、
自覚のないままに自分の正しさを
握りしめ、「正当な」権利を主張し、
本当は自ら負うべき責任を
相手に転嫁するということを
やっていました。
気付けば、あぁそうだったな、
と自分の責任を引き受けることは
すんなりできたのですが、
ストーリーにどっぷり飲まれていると、
鏡に向かって、
「お前、謝罪しろよ!」と叫び、
鏡は「お前の方こそおかしいだろ!
そっちこそ謝罪しろ!」と、
延々と交わることのない平行線を
どこまでも爆走し続けるのです。
まぁ、決して報われない
不毛な戦いですよね。
鏡ですから、そこに映っている像も
自分自身。だからこそ、自分自身と
戦ってはならないのです。
でも、スイッチが入ると
途端に戦闘モードに入ってしまう、
という方もいらっしゃると思います。
多分、そこには散々傷つけられてきた
体験の積み重ねがあって、
容易にその構えが解けないのでしょう。
こういう時に、その傷を癒していく
作業を重ねても、緩む方とそうならない方が
あります。
本来は癒せば自然に緩むはずなのですが、
緩まない方は、自分で傷を抱え込み、
手放さない、という選択をしています。
そこには色々なメリットがあるからです。
苦しいけれど、被害者の立場で居た方が
ある意味、強く出られる、という利点もあるし、
「正当に」相手を苦しめたり責めたりできる
権利を獲得できるし、自分で自身の感情の
責任を引き受けずに相手に転嫁できるなど、
一見、メリットなどあろうはずもない、
と思えるところにも、掘り下げていくと
自分自身のズルい下心が見え隠れするのです。
それが良いとか悪いとかではなく、
今自分はそういう選択をしている。
そして、その選択の結果を受け取っている
ということなのだと思います。
その結果が、今の自分に好ましいもの
であるなら、それは良い選択なのでしょうが、
そうでないのだとしたら、選択自体を
変えていく必要があるのではないでしょうか。
そして、
もし今の選択を変えるとしたら、
これまでの自分が生きてきた世界観を
根底から覆すことになるでしょう。
被害者でいるメリットはすべて
無くなりますし、今まで引き受けずに
済んできた責任を引き受けなければ
なりません。
こんなにあの人のせいで苦しんできたのに、
自分が責任を負わなければいけないなんて
理不尽だ、と思われるかもしれませんが、
そもそもそれは、相手の責任領域のこと
ではないので、理不尽ではないんですね。
もちろん、社会的、道義的、法的責任は
別ですけれど、自分の内側に湧き起こるもの
に関しては、自分で責任を負うのが
大原則です。
相手にあーだこーだ言う前に、
自分の責任を果たさなければなりません。
それが出来て初めて、
あなたの感情の責任は、あなた自身で
取ってくださいね、ということが言えて、
絡み合わずにシンプルに自立した
人間関係が築けるのです。
だから、赦すためにはまず、
自分自身のガチガチに固めてきた
世界観と、そのメリットを手離すという
覚悟がどうしても必要なんですね。
悔しさも、怒りも悲しみも、
諦めて、我慢して蓋をするのではなく、
本当に引き受けるんです。
諦めや我慢はただの蓋であり、
逃避です。それは引き受けたことには
なりません。
ここ、勘違いしている人が多いですが、
しっかり区別しましょうね。
言葉の上っ面のきれいさだけ取り上げて
許すだのなんだの言っても、
何も変わりはしません。
自分が何も変わろうと
していないわけですから。
その言葉の真意をまさに体現してこその
許しであり結果なのです。
空虚なお題目にならぬよう。
だからこそ、
赦すということは尊いのかもしれませんね。
許した方が、自分も楽になるし
もう心を煩わされることのない
自由がやって来るのはわかっているけれど、
でも、ど~しても許せない、
ということ、あるんじゃないかな、
と思います。
私自身、先日ようやく解けた
母への怒りも、そんなものの一つで、
これだけワークをやってきても、
自覚のないままに自分の正しさを
握りしめ、「正当な」権利を主張し、
本当は自ら負うべき責任を
相手に転嫁するということを
やっていました。
気付けば、あぁそうだったな、
と自分の責任を引き受けることは
すんなりできたのですが、
ストーリーにどっぷり飲まれていると、
鏡に向かって、
「お前、謝罪しろよ!」と叫び、
鏡は「お前の方こそおかしいだろ!
そっちこそ謝罪しろ!」と、
延々と交わることのない平行線を
どこまでも爆走し続けるのです。
まぁ、決して報われない
不毛な戦いですよね。
鏡ですから、そこに映っている像も
自分自身。だからこそ、自分自身と
戦ってはならないのです。
でも、スイッチが入ると
途端に戦闘モードに入ってしまう、
という方もいらっしゃると思います。
多分、そこには散々傷つけられてきた
体験の積み重ねがあって、
容易にその構えが解けないのでしょう。
こういう時に、その傷を癒していく
作業を重ねても、緩む方とそうならない方が
あります。
本来は癒せば自然に緩むはずなのですが、
緩まない方は、自分で傷を抱え込み、
手放さない、という選択をしています。
そこには色々なメリットがあるからです。
苦しいけれど、被害者の立場で居た方が
ある意味、強く出られる、という利点もあるし、
「正当に」相手を苦しめたり責めたりできる
権利を獲得できるし、自分で自身の感情の
責任を引き受けずに相手に転嫁できるなど、
一見、メリットなどあろうはずもない、
と思えるところにも、掘り下げていくと
自分自身のズルい下心が見え隠れするのです。
それが良いとか悪いとかではなく、
今自分はそういう選択をしている。
そして、その選択の結果を受け取っている
ということなのだと思います。
その結果が、今の自分に好ましいもの
であるなら、それは良い選択なのでしょうが、
そうでないのだとしたら、選択自体を
変えていく必要があるのではないでしょうか。
そして、
もし今の選択を変えるとしたら、
これまでの自分が生きてきた世界観を
根底から覆すことになるでしょう。
被害者でいるメリットはすべて
無くなりますし、今まで引き受けずに
済んできた責任を引き受けなければ
なりません。
こんなにあの人のせいで苦しんできたのに、
自分が責任を負わなければいけないなんて
理不尽だ、と思われるかもしれませんが、
そもそもそれは、相手の責任領域のこと
ではないので、理不尽ではないんですね。
もちろん、社会的、道義的、法的責任は
別ですけれど、自分の内側に湧き起こるもの
に関しては、自分で責任を負うのが
大原則です。
相手にあーだこーだ言う前に、
自分の責任を果たさなければなりません。
それが出来て初めて、
あなたの感情の責任は、あなた自身で
取ってくださいね、ということが言えて、
絡み合わずにシンプルに自立した
人間関係が築けるのです。
だから、許すためにはまず、
自分自身のガチガチに固めてきた
世界観と、そのメリットを手離すという
覚悟がどうしても必要なんですね。
悔しさも、怒りも悲しみも、
諦めて、我慢して蓋をするのではなく、
本当に引き受けるんです。
諦めや我慢はただの蓋であり、
逃避です。それは引き受けたことには
なりません。
ここ、勘違いしている人が多いですが、
しっかり区別しましょうね。
言葉の上っ面のきれいさだけ取り上げて
許すだのなんだの言っても、
何も変わりはしません。
自分が何も変わろうと
していないわけですから。
その言葉の真意をまさに体現してこその
許しであり結果なのです。
空虚なお題目にならぬよう。
だからこそ、
許すということは尊いのかもしれませんね。