善良な、心優しき人々が
幸せに暮らす世界でありますように。
豊かな自然が、美しく輝く
世界で在りますように。
日課の朝の礼拝のときに、
そんな切なる祈りが湧き出てきて、
覚えず涙が流れていました。
最近、明治神宮にご縁が出来て、
よく通うようになっているのですが、
以前から神宮外苑の再開発で1000本近い
樹木が伐採される計画があるとは
聞いていたものの↓
再びその話を目にして
ひどく心を痛めていました。
何とか伐採が回避される方向で
進むと良いな、と願って祈りました。
その他にも、近ごろ地方の山林の各所に
造設されている無数の太陽光パネルの
黒い波。ぞっとしますね。
今、国中に大規模なメガソーラー開発が
されていて、あっちこっちにこんなものが
作られています。
良かったら、画像検索してみてください。
ホントびっくりします。
あれをサステナブルなエネルギーの
お洒落な象徴だと見る感性には
到底ついて行けません。
去年7月の熱海に土石流被害を思うと
同じことが起こらないのか、ものすごく
胸騒ぎがして仕方がないのですが、
山肌がはぎ取られ、人間の欲にくらんだ
エゴが貼り付いているように見えて、
胸が痛みます。
世界が脱炭素に舵を切って
SDGsだのなんだのと言っていますが、
もう突っ込みどころありすぎ、
胡散臭すぎて、
真面目にあれを推進しようとしている
連中は、気が狂ってるのか?くらいに
私は思っています。
ホント、頭のいい人たちがやろうと
していることは、人間に対して
ちっとも優しくないしロクなことがない、
とつらつら考えていました。
知恵や技術がこの人類に無いはずはないのに、
どうもおかしな決定がねじ込まれ、
うまく世界を運営できてない、
ということが、とても息苦しく
感じてもいます。
それでも、希望を失ったわけではないので、
善良な人々が豊かに、幸せに生きられる
世界はきっとやってくるだろうと
思っています。
その日が早く来ると良いな、と
祈ったり、自分にできることをして
日々を過ごすのみです。
10年以上、感情解放ワークに
取り組んできて思うのは、
人が欲に目がくらむときというのは、
何かしらの不足感という心の隙が
あるときです。
今世界のあらゆるところで
歪んだ動きが無理やり作られている
ように私には感じられるのですが、
そういう動きを実行している
人々の心の行動原理には、
不足感に駆られた欲が根底に
あると思います。
そして、
人々をうまくコントロールしたい輩は、
不足感を感じさせる状況を作り出し、
欲しがらせ、欲を煽って
容易に人々を思うままに動かします。
不安感を煽るのも、同じ原理ですね。
そうして、人の道を踏み外したり、
色々な過ちが起こるのです。
いわゆる魔が差すという状態がこれで、
よほど人間としての軸がしっかり
していないと、抗うのは難しいです。
セッションでも、この魔が差す瞬間
というのを働きかけの重要なポイント
と捉えているのですが、
この時にどんな選択ができるか、
というのが明暗を分けていきます。
まさに、天国と地獄です。
人は、聖人にもなれるし、
悪魔にもなれる。
本当に紙一重なんですね。
今回自分は大丈夫だったけれど、
一歩間違ったら、闇に堕ちていた
かもしれないというその微妙な分かれ目に、
どんな要素があったのか。
それを明確に知ることが肝要です。
私はそれを、自身の感情を
適切に収める力だと思っているのですが、
だからこそ、根っからの悪人、善人はいない
と思っています。
そんなことを考えていたら、ふと
罪を憎んで人を憎まず、
という言葉が浮かんできたのですが、
この言葉の意味がやっと分かったような
気がしました。
人を赦すことはできる。
けれども、罪を赦してはならない、
と思うのです。
「鬼滅の刃」でも、炭治郎は
「鬼は悲しい生き物だ」と言います。
鬼自体を憎んではいないんですね。
けれども、鬼が人を食うことは
決して赦してはいません。
実に、日本人的な価値観ですよね。
破邪というのは、
そういうことなのかな、
と思いました。
取り留めない話でしたが、
今日はこんな感じで。