誰かが勧めるからやる。
あるいは、止められたからやめる。
親に怒られる、パートナーに
責められるからやめる。
などなど。
そういうこと自体が悪いとは
言わないけれど、そのときに、
相手の態度にそのまま反応しているのか、
受け止めたうえで自分なりに判断して
その結論を出したのかで
随分意味合いは違ってきますよね。
何も自分の考えを持たず、
ただ反応しているだけだとしたら、
それはかなり「ヤバイ」在り方
だと思います。
自分なりの判断基準を持たず、
周りに流されているだけですから、
本音では嫌だと思っていても
周りがそうしているなら
同じようにするのでしょう。
そういう在り方をしていて、
自分の人生に責任が持てるのでしょうか?
また、自分の人生を生きている
実感はあるでしょうか?
多分、そうやって決めたことの結果が
自分にとって良くないものになったら、
あの人がそういったからこうなった!
とか言って、
自分でその人の言葉に従うことを
選んだという自覚もなく、
当たり前のように責任転嫁
するのでしょうし、
自分で判断すること、決めることも
できないので、常に依存できる
判断基準を探して、そういう存在がいて
うまく行っていれば安心、
その存在が間違えば腹を立て、
こいつじゃダメだった!と、
あんなに依存していたのにさっさと捨てて
次の依存先を探すのだろうな、
と思います。
当然、自分の人生を自ら創造している
実感なんて、ないんじゃないでしょうか?
常に意識は依存先に向いていて、
自分はお留守です。
自分と対話する、なんてことは
論外なのでしょう。
なぜならそういう人にとって、
自分とは最も信用できない存在であり、
対話する価値もないものの筆頭だからです。
だから、自分よりももっとマシな存在、
頼れる存在、常に正解をくれる存在を
求めざるを得ないのです。
普段からそういう在り方をしている人が
いきなり自分の考えを持って
自分で判断しましょうと言っても
それはなかなかに難しいでしょう。
そもそも自分に向き合うこと自体が
そういう人にとっては苦痛以外の
何物でもなく、
自分に対する失望や怒り、憎しみさえ
抱いていたりするからです。
わざわざ在るがままの自分を見て
嫌な気分になるくらいなら、
もっときれいなもの、素敵だと思える
自分以外のものを見ていたいのです。
けれど、
そういう在り方を続けている内は、
自分自身の真の力に触れることも
ありませんし、健全な自尊心を
育むこともできません。
自分の心が穏やかでいるためには、
常に他人と比較して、
自分の優位性を確認して
優越感に浸っているとか、
絶対にこの存在について行けば安心
と思える存在に寄りかっている、
自分よりも力があると思える存在の
傘の下にいるなどしないと、
人生を生きるなど、恐怖でしか
ないでしょう。
自分自身を根本から否定して
背を向け続ける限りは
その恐怖とは常に隣り合わせです。
自分の人生とこの掛け値なしの自分で
対峙する厳しさ、奥深さ、慈愛、恩寵も、
知ることはありません。
どれだけ自分から逃げても
それはその人自身の選択なので、
それもアリと言えばアリですが、
たくさんの方の逃避した在り方を
見ていると、やはり肚を決めて
対峙した方が、人生はずっと豊かで
美しいものになるな、と思います。
まず、面構えが変わってきます。
その人らしい、人間的な魅力ある
顔つきになってきますよね。
そういうのは、お化粧とか洋服とかでは
誤魔化せないし、作り出せないものです。
自身の責任を引き受けた人だけが放つ、
気高さ、美しさなんですね。
逃げ続ける逃亡者の顔は、
どうしたってどこか歪んで、
卑屈なものになります。
逃亡者の顔をしている人も、
逃げずに肚を決めた瞬間から
瞬時に顔は変わります。
毎瞬毎瞬、私たちは
気高い戦士の顔になったり、
逃亡者の顔になったりしているのです。
恐くても、辛くても、恥ずかしくても、
結果を引き受けて自分で決めたとき、
私たちは気高い戦士への道へ
踏み出していきます。
さて、今のあなたは
どちらの顔をしていますか?