先日、どうしようかな~?
とぐずぐずしていた件、
覚悟を決めてえい!!と
歩みを進めてみたら、
想像以上に素晴らしい流れとなって
よかった~!とほんわかしている
今ここであります。(^^)
人生には潮時ってありますよね。
潮に逆らって船を漕いでも
徒労に終わるだけですし、
ややもすれば、危険なことだって
あるでしょう。
けれども、潮に乗って船を出せば、
すいすい~っとわずかな力で
遠くまで行けます。
そういう潮にはタイミングがあって、
ジャストのときに行動しないと
乗れないんですよね。
潮目を読んでタイミングよく
流れに乗る感覚は、
本来誰もが持っているもの。
けれど、
今だ!って直感が教えているのに、
頭で屁理屈をこねてぐずぐすしたり、
恐れから乗るべき波を見送ったりして、
直感に応答して行動する意識がないと、
そういう感覚もどんどん鈍っていきます。
よく、ワクワクすることをしよう
と言われますが、
普段からワクワクの感覚が弱い人は
それだとなかなか行動できません。
実は私もその一人なのですが、
ワクワクまではいかないけれど、
恐れもあるものの行動した方が
その後の感じが軽くて明るいとか、
行動しなかったら
どよんとした感じがするとか、
そういう感覚を頼りに私は判断し、
行動するようにしています。
恐れがあるから違うんだ、
とは必ずしも言えないんですね。
肝心なのは、その恐れが
どこからきているのかを
きちんと見ること。
そして、自分がどこまでのリスクを
取れるのか、失敗したとしても
致命傷を負わない限度を知っておくこと
でしょうか。
失敗しても、やり直せばいい
だけですから、失敗自体を
恐れることはありません。
恐がって固まっている自分の殻を
破っていくたびに、自分の勇気を
お祝いするような出来事が
待っていたりします。
そうして、
あぁ、これで良かったんだな、
と自分の直感と行動がかみ合ったことを
確認するのです。
私は、インドの神様や産土神様、
ご縁のある日本の神様をサロンに
お祀りしていますが、
本質的には、自分自身の内なる神を
最も重要視し、常に意識しています。
私にとってそれは、概念ではなく、
紛れもないリアルだからです。
内なる神に心を向けて、
その導きに叶うような在り方が出来たとき、
自分にだけわかるような形で
印が来ることがあります。
傍から見たら、何のことはないことなのですが、
私にとってはすごく意味深いことで、
確実に天意につながったことがわかる
印なのです。
これまで、人生で何度かそういう印が
来たことがありました。
必ずしも、ほんわかするばかりではなく、
ものすごく苦しい歩みの中で、
問い続けたことの応えが
絶妙なタイミングでやってきたり、
生きるのを諦めかけたときに、
それでも様々な形で生き続けられるように
正しくない行動を遮られたり。
振り返ってみれば、
良いときも、そうでないときも、
恩寵は常に私とともに在りました。
そのことに、長いこと気付いて
いなかっただけなんですね。
何か、強烈な神秘体験をしたときだけ
神と繋がったわけではなく、
神は、私たちのすべての瞬間の歩みを
見ておられます。
神というと、
人格を持った存在をイメージしがちで、
自分とは別の遠い存在のような
概念を持つ人が多いと思いますが、
私には、永劫の時を越えて
私たちの歩みを記憶し続ける存在
のように感じられます。
つまり、私たちと離れてはいないんですね。
だから何だ、そんな存在がいるなら
この苦境をどうにかしてくれ!
と思われる方もあるかもしれませんが、
自分の存在を永劫の時を越えて
知ってくれている眼差しがある
ということは、言葉に言い表せないほどの
安心を私に与えてくれました。
苦しい時も、幸せな時も、
希望を失い、悲嘆に暮れたときも、
世を呪い、自分を呪った時も。
その全ての出来事、
誰も知らないこの私の心の機微を知り、
歩みを共にしてくれていた眼差しが
あったのです。
よく、亡くなった人のことを
覚えていてあげることが供養だと
言われますが、
自分のことを知っていてくれている
ということが、どれだけ心を
軽くするものなのか、
その力は計り知れないものだと思います。
なぜそうなのか、
私にもうまく説明はできない
のですけれどね。
潮目を読む感覚というのは、
その眼差しに触れて共に歩む感覚、
とでも言ったら良いでしょうか。
私自身、最初は導きに対する自分、
という認識でいたのですが、
今は、導きと自分が一つに溶け合っている
ようなイメージになってきました。
日々色々あるけれど、恩寵に感謝を忘れず、
それとともに在る歩みを続けて行こう
と思います。