様々な抑圧された感情の中で、
怒りは他の感情よりもちょっと
解放していくのにコツが要る
感情であるような気がします。
何より、多くの人が持つ
怒りに対するイメージが
ネガティブすぎるので、
自分の中にそれを認めること自体に
抵抗があることも多いですしね。
怒りの感情をあらわにする人に対して、
非常に冷めた目で軽蔑していたり、
嫌悪感を持っていたりすると、
まず自分の中の怒りに触れることが
できません。
実際、怒っているのに
それを認識できなかったり、
強い怒りが湧いてきた瞬間に、
氷のようにす~っと冷めていく、
というケースもあります。
一方で、怒っている人の側にいると
ものすごく怯えてパニックになったり
固まってしまっている方もいて、
怒りに対峙してそれに触れることが
とても難しい状態だったりします。
どちらのケースも、
自分自身の中の怒りをまともに
受け止められる状態にはないので
抑圧されており、
それがゆえに、その人の現実には
しばしば自身の内に抑圧された怒りを
体現するような人を引き寄せます。
また、怒りを否定している人ほど
絶対に怒らないようにしているのに、
これでもか、というくらいに
怒りを感じさせるような出来事が
起こってきますが、
否定したものは受容されるまで
繰り返し差し戻される、という法則が
働いているからです。
我慢強い人ほど我慢してやり過ごそうと
しますが、そうするほど、その我慢の
限度を越えさせるようなことが起こって
嫌でも自身の内に隠したものを
あらわにさせられますね。
だから、そういう心当たりのある方は、
自分の中の怒りを否定するのを止めて、
適切に責任を持った方法で
統合していくことをお勧めします。
これまで何度もお伝えしてきていますが、
怒りは、それ自体が悪なのではありません。
私たち自身がそれに適切に対処する術を
身につけていないので、暴走させ、
結果、人を傷つけたり自分が傷ついて
嫌な気分になるのです。
だから、怒らないように生きるのではなく、
怒りに適切に対処できる術を身につける
ことが大切です。
怒るべき時に怒れないのでは、
他者から甘くみられる場合もあるでしょう。
要するに、ナメられるわけです。
自身の尊厳を傷つけられるような
ことをされて、ヘラヘラ笑っていては
いけません。
それでは、自分の尊厳はそのように
尊重される価値のないものである、
と自らメッセージを発している
ようなものです。
そういうことは断じて許さない、
という強い姿勢を表明することも、
大切な自己表現です。
近頃の教育では
みんな仲良く、不和はいけない、
優しく在るべきだ、などと
陰に陽に教えられているようなので、
嫌だとか、それはやめてほしいとか
きちんと伝えることがいけないこと
のように感じてしまう人も
少なく無いようです。
けれど、自分が何を欲し、
何を望まないのかをきちんと伝えられる
ということは、コミュニケーションの
最も基本となる土台ではないでしょうか。
怒りは、
してほしいことをしてもらえなかったか、
してほしくないことをされたかによって
傷ついた気持ちの反応として起こります。
であるなら、
怒りを否定するということは、
自分自身が何を求めているか知ることを
否定することにもつながってくるでしょう。
ここが混乱してしまうと、
自分自身がわからなくなってしまいます。
自分が本当は何をしたいのかわからない
という方がよくいらっしゃいますが、
これも、長年、怒りをはじめとして
自身の欲求を抑圧し、誰かが望むことを
満たすように適応してきた結果かもしれません。
自身の怒りを貶めないように。
怒りも、自分自身の大切な一部です。
それを否定することは、
自分という存在を否定すること
と同じです。
否定することで、
自分自身を切り刻み、分離させ、
不完全で歪な存在にしてしまうのです。
怒りは確かに凶暴なエネルギーですが、
抑圧するほどに、その凶暴性、狂気性が
増していきます。
そして、荒れ狂い、暴走していくのです。
否定し、抑圧しなければ、
怒りがそこまで暴走することは
ありません。
あぁ、自分は怒っているんだと認め、
傷ついた気持ちに適切に応答すれば
良いわけですから、暴走する必要性が
なくなるんですね。
怒りは、何か応答すべきものがある
というメッセージだということを
覚えておきましょう。