自己肯定感が低くて
言葉の端々に自分を卑下する言葉を
口癖のように言うけれど、どこかに
プライドの高さをにおわせる人を
たまに見かけます。
自己肯定感が低いのにプライドが高いって
どういうことだろう?と思われる
かもしれませんが、
人間というのは不思議なもので、
一見、相反するように見える要素が
同居していることって
よくあるんですね。
大好きだけれど、憎んでもいる、
みたいな感じでね。
プライドが高い人というのはしばしば
理想も高くて、自分の中では
それなりに努力しているつもりで
その辺の人より自分は優れているはずだ
という思いがどこかにあるように思います。
けれども一方で、その高すぎる理想に
現実が追い付かない葛藤も強くあって、
自分よりも優れた存在が現れたとき、
そのプライドがひどく傷つくんですね。
そのことが、自分を卑下するような
態度に繋がっていきます。
そして、その居心地の悪さから、
周囲は誰も気にしてなんかいないのに、
理想に程遠い自分で在ることへの
言い訳を繰り返します。
このような在り方になるのは、
自分自身を絶対評価ではなく、
人との比較によって評価しているためです。
つまり、
人よりも優れていたい、
特別な存在でありたい、
みんなと同じは嫌だなど、
他人軸になっていて、
他者がどう在れ、自分はこう思う、
こうする、こんな自分で在るという、
自分軸が無いのです。
日本語では「プライドが高い」という言葉は
あまり良い意味では使われませんが、
それは「誇りを持つ」という言葉とは
違ったニュアンスを持つように思います。
前者は未熟な自意識による優越感を持つ
偏った在り方をイメージさせますが、
後者は、自分の生きる世界に深く根を張って
どっしりと自分軸を持ったところからくる
力強く健全な自尊心を思わせます。
当然、後者のような在り方は、
自己卑下とは無縁でしょう。
また、プライドが高くて
自己肯定感も高い人もいますが、
やはりプライドが高いという時点で、
他者との比較意識というのは
あるように思います。
この場合、自分の理想を自分なりに
体現できている自負があるので
自己肯定感が高いのでしょうが、
自分が出来ていることが出来ない人への
分離意識が強く、下に見る傾向が
あるかもしれません。
ここも、自分は人とは違うという
意識の表れかと思いますが、
それが鼻につくプライドの高さの
元になっているのかな、と思います。
自分の理想を体現出来ていても
鼻につくプライドの高さがない人も
いますが、そういう人は、
決して他者を分離して下に見る
ということはしません。
自分の中に目の前のその人と同じものが
あることを知っており、また、
その人の中に自分と同じものがあることを
知っているからです。
深く本質を捉えているからこその
自分軸であるが故に、
他者を切り離す必要も、
他者と比較する必要もないんですね。
その人の誇りは、
ただ自分が自分で在るが故の誇りです。
どこかからか持ってきた基準を満たした
自分であるかどうか、ではないのです。
他人軸で生きている限りは、
どうやっても葛藤は続き、
苦しみを持続させるでしょう。
その苦しみを終わらせるには、
自分軸で生きるしかないのですが、
他者よりも優れているという優越感で
自分を満たすのを止めたとき、
その優越感で支えていたものを
きちんと支えられるかどうか。
優越感を一つ一つ外しながら、
他人に置いていた軸を自分自身に
引き戻していくことです。
特別な存在にならなくても大丈夫か、
人より優れていなくても、
劣っている自分も受け止められるか
などなど、チェックしていきましょう。
多分、優越感を外していくと、
無力感や無価値感、あるいは、
絶望や狂気などが溢れてくる
かもしれません。
そういうものにきちんと対峙し、
統合していくのです。
内側奥深いところに
こういうものを抱えている限り、
それがいつ溢れてくるともしれない
恐れは消えません。
だから、鎧を厚くしなければ
耐えられないのです。
自分の内側が本当の意味で安らぎ、
満ちている時、自然に自己肯定感は
高まってきます。
自分が自分で在ることが幸せに感じられ、
自分自身の力への信頼もおのずと
湧き上がって自信に満ちています。
こういう状態こそが、
健全な自尊心を持った状態だと
私は思います。
プライドが高い人になるのではなく、
揺るぎなく、誇り高い人で在れ!