私がお伝えしている感情解放ワークでは、
どんな時も自分から離れないことを
繰り返しお伝えしています。
自分の気持ちから離れない、
自分の体感覚から離れない、など、
自分をお留守にしないということが
大事なんですね。
だから、セッション中は常に
体感覚から離れないでいることを
お伝えし、繰り返し繰り返し
浮上している気持ちのカケラ君を
体感覚で捉えていくことをします。
自分から離れるってどういうことだろう?
と思われるかもしれませんが、
私たちはストレスがかかると、
割と簡単に自分から離れてしまいます。
たとえば、退屈な授業を聞いている時、
学生さんたち、上の空になっていること、
多いんじゃないでしょうか?
あるいは、人生でものすごく辛い時期、
必死で目の前のことをこなしているけれど、
どこか現実感が無いとか、
強いショックを受けて、
ぼ~っとしてしまっているなど、
こういう時はみな、意識体が肉体から
離れてしまっている状態です。
今ここで、体の中にいるのが辛いから、
意識が体から抜けてしまうのです。
こういう状態になると、
人生はどこか他人事のように感じられ、
うまく自身の人生を生きて行くことが
できなくなります。
もちろん、話しかけられれば
受け答えもできるし、体も動かせるので
自分が体から抜けてしまっている
という自覚が無いことが多いです。
けれど、そういう状態のときに、
よからぬ者が侵入してくることがあるので、
危険で無防備な状態でもあります。
だから、きちんと本来あるべきポジションに
意識体が収まっている状態に戻るよう、
セッションではしばしばそういう誘導を
していきます。
これまで長く自分自身に向き合ってきて、
常に私がコミットメントしてそう在ろうと
意識し続けてきたのは、
どんな時でも自分を見捨てない。
自分から離れない、ということです。
今でもそのコミットメントは
生き続けていますが、
今度はさらに、もう一つ、
離れないでいるべきものが
出てきたな、とふと思いました。
自分が次の段階に進むために
何が必要だろうか?と考えたとき、
自分の中心から離れないことが
浮かびました。
日常の中でもしばしばこの中心の感覚は
意識することがあり、ヨガをするときは
アーサナのときも呼吸法のときも、
この感覚をしっかり取ってから
やるようにしています。
また、セッション中にも意識することは
多くあります。
けれど、まだ四六時中というわけではないので、
より多くの瞬間に、意識し続けられると
多分もっと深まっていくものが
あるのだろうな、と思いました。
長く取り組んできたプレゼンス、今この瞬間に
在ることも、それを意識するのは
私には非常に難しいのですが、
自分の中心に心を静めるのなら、
できるような気がします。
そうしているとき、マインドは自然に静まり、
深く静寂に落ちていく感覚があります。
レナードの教えを実践することは
難しかったですが、別の道から自分なりの方法で
たどり着けるものがあるかな、とまだまだ
試行錯誤中です。
全集中の呼吸・常中のように、
全集中の中心・常中ができるようになると
良いな、と思って今はそれが
私の新たな目標になりました。
道を歩むことを、先を見てその遠大さに
げんなりする人が結構いるのですが、
道のそこかしこにある宝を拾いながら
歩むことの楽しさ、奥深さ、感動は
何にも代えがたいものがあります。
本当にちゃんと歩めていれば、
道はそれ自体が本当に愛おしく、
尊いものだと思えます。
それは、ルーティンのやっつけ仕事のような
無機質で無味乾燥のつまらないもの
などではなく、
毎瞬が生き生きと、自分自身を活性化させる
奇跡の瞬間です。
心底苦しい、辛い、と感じるときもありますが、
それもまた、来し方を振り返れば、
恩寵に満ちた愛の瞬間でもあります。
道は、終わりがないのが良いですね。
どの一歩も同じではなく、
それぞれに深い味わいがあり、
意義深く尊い。
深まれば深まるほどに、
さらに奥深い領域が展開していく。
それを、宝箱を空ける子供のように、
心躍らせながら戯れるのです。
自分から離れない、を深めていくと、
内なる神から離れない、
にたどり着くとは。
わかっていたようで、
腑に落ちてなかったんでしょうね。
自分という意識が中心に触れて、
少しずつ変質していくプロセスも、
観察していこうと思います。