誰にでも、多かれ少なかれ、
こうなりたい、という願いや夢が
あるものだと思います。
私自身、昔からあまり夢は
持っていませんでしたが、
今の自分が嫌で、こうなりたいな、
というくらいの思いはありました。
今はそうではないけれど、
いつかそうなりたいと思いながら
日々を過ごすときの在り方と、
今まさにかつて願い続けてきた
その夢を体現しながら生きているときの
在り方は、全然違うな、ということを
ふと思いました。
以前、あるスポーツ選手が、
自分が夢見続けてきたひのき舞台で、
憧れだった選手と対戦することになったとき、
あんなにすごい人と対戦できるんだ!
と興奮しながら、胸を借りるつもりで
闘わせてもらう、みたいな意味合いのことを
コーチに話したら、
そのコーチは、コートに立ったら、
相手は自分が打ち負かすべき敵なのだ、
憧れの人と見るなど言語道断、みたいに言って、
その選手の心の在り様をたしなめた
という話をどこかで聞きました。
ものすごくうろ覚えの記憶なので、
正しい表現ではないと思いますが、
とにかく、その心の在り様が印象に残って
覚えていたんですね。
その選手にしてみたら、
夢の舞台に立てるだけで舞い上がるような
気持ちだっただろうし、しかも相手は
あのスーパースター、憧れ続けてきた
その人です。
そういう気持ちになるのもわかります。
けれど、その舞台に立った時点で、
もうその選手は、かつてひのき舞台に
憧れ続けていたクラスの選手では
なくなっています。
そして、その舞台では、
日夜スーパースター選手たちによって
死闘が繰り広げられているわけです。
そこに立つということは、
自分もその死闘を繰り広げる選手の一人
になるということです。
その死闘を戦い抜く覚悟があるのかどうか、
憧れの人と対戦できるだけで御の字、
という気持ちでは、容易にその舞台から
転落していくでしょう。
ひのき舞台を憧れとして思い続けることと、
夢を体現するということの違いは、
天と地ほどにも大きいのです。
夢は、到達することが目標ではありません。
夢を毎瞬、体現し続ける在り方が
できる人だけが至れる境地があると思います。
それができるかできないかが、
超一流と、一流の違いなのかもしれません。
一瞬だけ目標を達成できる力と、
それをコンスタントに達成できる力とは、
同じではないですよね。
出来たら奇跡!みたいなことを、
100回やったら100回出来て当たり前になるには
何が必要なのか。
そういうところを組み立てていく
意識がまず必要ですね。
そういう意識が持てたら、
その人はどんどん人から抜きん出ていきます。
そのように、容易くできる人もいるし、
そうでない人もいます。
私はそうではない方の劣等生の思いが強くて、
何度も挫折してきたし、うまく行かなかった
期間が長くありましたが、
できないなりに、それでも歩み続けていたら、
いつの間にか剥がれ落ちて行った苦しい思いもあり、
少しずつ結果がついてきて、
自分を認められるようになってきました。
できないときは、
容易くすいすいできてしまうように見える人が
とても羨ましく、輝いて見える一方、
自分が惨めで仕方ありませんでした。
人一倍、頑張っているつもりなのに、
できないのは本当に情けなく、
無力感に打ちのめされていたものです。
半ば諦めて、手放すように離れたりもしました。
それでも、歩み自体を止めてはいませんでした。
どこかで、そのことを思いながら
積み重ねてきた歩みだったような気がします。
羨ましく見えた周囲の人も、
私には見えていないだけで、
今生か、別の人生のどこかで
劣等生の私が味わってきたような思いを
散々、経験してきたのかもしれません。
他人のことについてわかることなんて
ほんの一部であり、それも誤解と偏見に満ちた
見え方でしかないことが多いのですし。
他人のことを羨んだり妬ましく思うのは、
自分が自身に対して果たしていない
何かがあるのだと思います。
そうして、
自分から逃げているにもかかわらず、
あの人にはあるのに自分には無い、
と、お門違いのジェラシーを
抱いているのです。
毎瞬、自分の夢を体現しながら生きている人は、
そのような逃避をしている暇があるでしょうか。
そもそも、そのようなことに使うエネルギーなど、
一滴もないのではないでしょうか。
極限を越えて自分に向き合い、
自身の可能性を研ぎ澄まし、開いて行くことに
集中しているのではないでしょうか。
だからこそ、他の誰にもまねできない
唯一無二の、あの輝きを放っている
のではないでしょうか。
夢を憧れとして遠くに見ているのではなく、
今まさに、奇跡を生きる覚悟があるのかどうか。
そんなことを思いました。