人は、ある段階に居て、
どうしてもその段階のことをやり尽くさないと
先に行けない、ということがあるのではないか
と思います。
私自身を振り返ってみても、
自分の感情に取り組み始めて、
愛だ光だというスピ界隈の風潮には
どうしても馴染めず、
日々自分の中に後から後から溢れてくる
ドロドロした暗く重い感情と格闘し続けていた
時期がありました。
そういう時期に、既にそういう段階を
通り過ぎたような人からの達観したアドバイスを
いくらもらっても、全く自分には響かなかったし、
理解もできませんでした。
自分でも、軽やかでいられない自分に
結構劣等感を持っていたけれど、
それでも、目の前の苦しみの数々を
手放すことができませんでした。
別に苦しむことを望んでいたわけでは
決してないのですが、
どうしても意識はそこに吸い寄せられ、
ありとあらゆる闇を毎日何時間も、
何か月もひたすら見続けていました。
今振り返れば、あの時期ほど
自分にとって貴重な取り組みをした時期は
人生で無かったかもしれません。
劣等感を抱いていたあの暗く重いドロドロした
プロセスを生き抜いたことは、
今の私にとっては誇りであり、
また宝でもあります。
歩むべくして歩んだ道のりであり、
あの時期に、多くのカルマの清算が
起こったのではなかったかな、と思います。
そういうものを、わかった風をして
やり過ごすことはできません。
それは、頭でさらっと理解して済ませることも
できませんし、自分でこの身をもって
生きることで知るしかないのです。
そういう歩みのペースやタイミング、質や量を
他者と比べることはできませんし、
ただ、ひたすら自分に向き合い続けて、
いつ明けるともわからぬ道ではありますが、
行くしかありません。
そして、明けるタイミングは、
歩みきった時におのずとわかるでしょう。
私はあまり器用ではないので、
頑固で物わかりが悪く、変に固執していたり
被害者意識が強かったり、歪んだ解釈しか
できなかったこともあったでしょう。
でも、その不完全で未熟な自分で
あちこち打撲や擦り傷を作りながら、
どうにかこうにか歩み続けていました。
完全な自分になったら始められる
というものでもないし、
どれほど未熟な自分でも前に進まなければ
いけないときがあります。
未熟な自分でぶつかるからこそ、
どうしたら前に進めるのかを
知ることが出来るのです。
ぶつからなければ、
そういう学びもないわけですからね。
そりゃぁ、下手にぶつかれば痛いですし
怪我もするでしょう。
でも、荒波にも揉まれる中で、
いかに自分が歪に歪んでいたのか、
不必要なものを握りしめていたのか、
見るべきところを見ていなかったのか、
どういう心構えを持っているべきなのか
などが身をもってわかるようになります。
こうした実地の経験から得たものこそ、
自分の血肉になって使える情報であり
技術にもつながっていきます。
それは、誰にも奪われることのない
自分だけの力になります。
パッケージング化された知識や技術は
多くの人が同じように学び、効率よく習得
できるが故に、容易く競争に巻き込まれ、
常に、いつでも代替えの利くパーツの一つ
でしかない不安定さが拭えません。
そういうものは、自分の根幹を支えるものには
決してなり得ないのです。
けれど、そうした知識や技術自体が
悪いと言っているわけではありません。
そういうところで勝負するのではなく、
自分という確たる土台のうえに、それらを
より自分を高めていくツールの一つとして
うまく使うことです。
自分という土台がしっかりできていれば、
何を学んで取り入れたとしても、
自分なりにアレンジし、それを使って
自身の新たな境地を開いて行くことも
できるでしょう。
そういう学び方をしなければいけないし、
自分をしっかり持っていることが
大切です。
教えや技術は、
そっくりそれを再現できればいい
というものではありません。
自分を通してそれを表現したときに、
どんなものが体現できるのか。
そういうことが重要であって、
コピーが求められているわけではないのです。
コピーどまりのものには、
魂がこもっていません。
それは形だけの張りぼてであり、
そこにあなたという命を吹き込むことで、
生まれていくものを創造するのです。
それが、唯一無二のオリジナルであり、
本当に価値あるものなのではないかな、
と思います。