私たちは、意識、無意識的にも
自分の心の隙間を埋めてくれる人を求めて
思うように動いてくれるよう、
あれこれ取引し、コントロールする
という構造があらゆる人間関係の中に
あるように思います。
自分の望むように相手が
心の隙間を埋めてくれれば幸せ、
愛してくれているんだと感じ、
そうでないなら不幸で愛されてないと思う。
自分はこれだけやってあげたのに、
相手はその分どころか少しも返してこない
と憤慨し、「投資」分を取り返さないと
何だか自分だけ損をしたように感じる、など。
こうして書き出してみれば、
あられもないというか、どれだけロマンスや
きれいごとのエッセンスを振りかけて
美化しようと、結局は取った取られたの
損得勘定なんですよね。
こういうのを巷では愛と呼ぶことも
あるようですが、これは明らかに、
愛ではありません。
こんな人間関係はもう御免だ!卒業したい!
と思うのであれば、自分の中の心の隙間を
誰かに埋めてもらおうとするのを
やめなければなりません。
心の隙間は、それが在ること自体、
とても心許なく感じ、不安でソワソワして
居心地悪く感じるものです。
だから、それを埋めてくれる存在は、
心底心地が良いし、離れ難く、
しばしば執着の対象になります。
その存在を失うことは恐ろしく、
深い絶望を感じるでしょう。
これ故に、相手を自分に留めておくために
しばしば必要以上に自分を差し出して
しまったりもします。
やっと得た平安の世界が崩壊してしまうのを
止められるのなら、
魂すら売ってしまいかねないほどの
狂気じみたものを表すことさえあります。
また一方で、相手が思うように
自分の心の隙を埋めてくれないと、
裏切られた!と感じます。
すると愛もどきは一転して憎悪に変わり、
非常に凶暴で暴力的なエネルギーを
相手にぶつけるようになったりする
ケースもよくありますね。
こういう人は、
どうしようもなく自身の内に荒れ狂う
感情のエネルギーに、ただただ
振り回されるのみなのです。
その人が幸せになったり激怒したり
傷ついたり不幸になるのは、
誰かがその人の心の隙間を埋めて、
望みを叶えてあげたりあげなかったり
したせいではありません。
ひとえに、その人自身の在り方の問題です。
その心の隙間に荒れ狂う
感情のエネルギーを、
自分で治めなければなりません。
一人の自立した人間として、
その責任があるのです。
その人は、自身のあらゆる心の傷を
自分で癒し、孤独や悲しみ、不安や絶望、
怒りや憎しみを統合しなければなりません。
そうして、あらゆる外部の何かで
心の隙間を埋めるのではなく、
自身の内から自分を満たすものを
見つけていくのです。
本当にそれができるまで、
他者をコントロールしようとし、
執着したり被害者意識に駆られたり、
どうしようもない不安や絶望感、孤独感に
苛まれる日々は、決して終わらないでしょう。
自身の在り方の問題を誰かや何かに
責任転嫁している内は、
無力感や無価値感を拭い去ることは
できませんし、健全な自尊心を
抱くこともないでしょう。
そんなことは到底自分にはできない、
と思う人は、自分を無力なままにしておく
設定になっているのでしょう。
その状態で居ることに、
メリットがあるんですね。
そして、そのメリットはその段階で、
自身の真の力につながったり
健全な自尊心を抱いて
地に足を着けて立つことよりも大きい
と判断、選択していることになります。
自分にはできない、と思う人は、
多分、できるできないの前に、
やろうとすらしていないだろうと思います。
そもそも、やろうという
心の体勢になれないんですね。
既にその段階で、心が挫かれているわけです。
そういう状態になっているのも、
なっているだけの理由や事情が
そこにはあるでしょう。
そこに、何らかの心の傷があるはずなので、
そこに対処して行くと、踏ん張れるだけの
心の力が使えるようになっていきます。
割れた水瓶では、なかなか心の力が
溜められないですからね。
自分自身の内面的なものに向き合うのにも、
ある程度のエネルギーが必要であり、
精神的な下地が整っていないと
なかなかスタートできません。
段階を踏みつつ、
心の体勢を整えていったとき、
これまで、どうしても選べなかった
別の選択肢の扉が開くでしょう。
ベタベタドロドロした依存、執着、
取引の関係ではなく、
清々しく晴れやかな人間関係を
築いていきましょう。