クライアントさんからある質問をいただいて、
思うところがあったので、それについて
書いてみようと思います。
自分はいかに生きるべきなのか。
これは、誰しもが生涯を通して
問い続けるであろう問いの一つ
だと思います。
自分の胸に問い、誰かに問い、
様々なアドバイスや諫言などもらいながら
さらに自分に問い、選択・実践し、
その自分の現実を前に再び問う。
こういうことの繰り返しです。
決して、どこからか降って湧いたような言葉で
一瞬にして解決するような問いではありません。
ここで私が絶対に欠いてはならない、
大切なことだと思うのは、
誰かに言われた言葉や対峙した現実を
「自分がどう感じるのか」をしっかり
受け止めることと、
それに対して
「どう応答するのかを自分で決める」
ということの2点です。
案外、ここをおろそかにして
漫然と通り過ぎたり鵜呑みにしたりして
足元をすくわれている人が
多いような気がします。
というか、そういう概念自体がなくて、
誰かの言葉をそのまま何も考えずに
採用して、自分で考えたのだと
思い込んでいるように見えます。
そのような人は、
答えは自分で見つけるものではなくて、
与えられるのが当然なのだ
とすら思っているかのようです。
年齢関係なく、そういう傾向の人が
結構な頻度で見られるのは、
この国の教育のせいもあるのだろうと
思うのですが、これは非常に危険なこと
だと私は思っています。
今これを読んでいる方でも、
ふんふん、そうだよね、って
思ったとしても、
本当にこのことの重要性を理解できるのは、
日頃から意識的にこれを実践されている
方だけだろうと思います。
そのくらい、さらっと読み流せば
分かったつもりになって
読み流せる話です。
どういうことか、具体的な場面を想定して
お話していくとしましょう。
たとえば、
あなたがものすごく信頼していたり
社会的な権威のある人が言った言葉
について、あなたは普段、
どんな風に受け取っているでしょうか。
その言葉を自分の感覚で良く感じ、
吟味したうえでそれを採用するかどうか
いかに使うかをどれだけ意識して
決めているでしょうか。
こんな場面をイメージして見ると
わかりやすいですね。
その道の専門家であるお医者さんから
あなたは不治の病です。
現代医療では治せません。
余命3か月です。
と宣告を受けたとします。
それはものすごくショックなこと
でしょうけれど、
専門家から言われた言葉の内容が
真実であるのかどうかは、
また別の話です。
けれど、そうなんだ、と
受け入れてしまえば、
あなたはそれを真実にしてしまう
可能性が高いでしょう。
そう言われた、という事実と
言われた内容を自分にとって
どういう意味を持たせるのかは、
分けて考える必要があります。
そう言われたからと言って、
3か月後に必ず死ななければいけない
わけではないですからね。
実際、私の友人知人の中にも、
治りませんと医者から言われた病を
自力で治してしまった人が
何人もいます。
言われた言葉にどれだけの有効性と
重要性を与えるかは
自分で決めることなんですね。
え~!そうなの?知らなかった~!!
ってこれを読みながら衝撃を
受けている人、いるかな?
ここで一つ注意したいのは、
何でもかんでも都合のいいように
思い込めばいいという話ではなくて、
あくまで、自分でどう感じているのか?
ということに正直でいることが
大事なんですね。
先の例で言えば、
もうすぐ死ぬかも、と感じていることを
無理やり否定して、生きる希望を
ねじ込むということではなく、
そう感じていることを受け止めたうえで、
自分はこの現状にどう応答するのか、
ということなんですね。
相手に言われたことが図星過ぎて
否定できないのなら、
じゃぁそこから今の自分の諸々の
限界や条件を踏まえたうえで、
どう在りたいのか、今何をするのかを
決めるわけです。
あくまで、
自分が体験している現実から
自分の可能性を探るんですね。
ものすごく努力できるのなら
今の限界を超える努力をすればいいだろうし、
そういう気力もないのなら、
限界を受け入れるのでしょう。
生きていれば、誰にでも
制限はあるし、限界はあります。
けれど、そこで終わるかどうかもまた
自分で決めて、更新していけるのです。
そういう力を使うのかどうか、ですね。
自分の限界に挑戦するチャレンジャーは
徹底的なリアリストの面がないと
いけません。
自分自身に本当に向き合っていないと、
今の自分に何ができて、限界が
どこにあるのか、わからないですよね。
そういう輪郭が取れないと、
余計に人の言葉を鵜呑みにして
左右されるのです。
そういう意味で、
アドバイスを本当に糧にできるのは、
横着しないで自分自身に向き合い続ける人
ということになるのしょうね。