人の心は複雑で、
表面的に思っていることと
深いところの意志が違っていることが
しばしばあります。
人間心理について、何かしら少しでも
学んだことのある方なら、
よくご存じのことと思いますが、
こうしたいのだと思ってそれが揺るぎない
思いであるかのように感じていたとしても、
深く深く掘り下げていけば、
それとは正反対の思いを抱いていることなど
珍しくはありません。
長年、強く思い抱いた信念ほど、
それとは違った自身の真実をを知った時は
動揺し、途方に暮れるものです。
長い間、その信念によって人生を歩み、
支えられてきたというのに、
その積み重ね、歩み自体を
否定するような真実に、
どう整合性を取ったらいいのか
わからなくなってしまうからです。
そして、つじつまを合わせるために、
自身の真実を否定、抑圧し、
再びこれまでの信念によって
自分を支えようとする。
そんな場面を幾度も見てきました。
信念の崩壊の危機を、
人は無意識にも避けようとして、
真実よりも信念と現状維持を
優先させてしまうのです。
けれど、
その試みはうまく行くことはありません。
真実を知ってしまったら、
どんなに取り繕っても、
もうその信念は、かつてほどの輝きや
頼もしさはないでしょう。
もう既に、それが張りぼてだと
気づいてしまったからです。
どんなにその真実が
理想とは違っていようと、
都合が悪かろうと、
張りぼての信念の上に建てられた
砂上の楼閣を解体して、
真実の基盤に向き合わなければなりません。
これまで、どんなに一生懸命になって
人から称賛されるような素晴らしいことを
成し遂げたのだとしても、
それを捨てて、
すべてを失う恐怖が襲って来ようとも、
その自分に向き合うことが出来ないのなら、
そういう自分もまた、張りぼてだ
ということなのです。
このように、奥深くの自分と
表に出ている自分とが乖離していると、
その人から発せられるあらゆる表現に、
重みや深み、説得力も出てきません。
どこまでこれらの自分を統合し、
一致させられるか、というのが
そのままその人の存在感、
プレゼンスに直結します。
例を挙げるなら、
口先だけでものを言うときと、
心からの言葉、そして肚の底からの言葉では
その重みが全く違うことがわかるでしょう。
口先だけでぺらぺらと言えても、
同じ言葉を、肚の底から揺るぎなく
言えるでしょうか?
微塵も揺らぐことなく、
肚から自分を表現するというのは、
どうしたらそんな在り方が
できるでしょうね?
自分の本意を知らねばなりません。
本当にそれを知るには、
あらゆる都合や優先順位を越えて、
そのことが自分にとって第一義
にならなければ、できないでしょう。
優先順位を変えるというのは、
言葉で言えば簡単ですが、
なかなかなことだと思います。
自身の真実を最優先にしたら、
今の生活が成り立たなくなってしまう
という恐れを抱く人も多いと思います。
どれだけ、仮面をかぶって生きてきていることか。
奥底の自分は、とてもパワフルです。
けれど、抑圧されているという以前に、
深い深い眠りについていることも
よくあります。
今まで、眠り続ける人に何人も会ってきたけれど、
根本的には、自分で起きようと思わなければ、
外からどれだけ働きかけをしても、
目覚めることはないんじゃないかと思います。
その起きる意志も、口先だけのご都合主義で
揺さぶるのはまるで意味がありません。
こんこんと眠り続ける自分と、
よくよく対話してみることです。
そういう自分と戦うのではなく、
対話できるチャネルを開くこと。
扉は、こじ開けるものではないのです。
感情解放ワークをしていて、
この奥深くの自分を力技でねじ伏せようと
する人がいますが、それは無理です。
というか、そのように自分をねじ伏せる
ということは、ご存じ、鏡の法則によって
自分が誰かからかねじ伏せられる
という現実を引き寄せてしまいます。
だから、戦うのではなく、和解し、
統合するのです。
もっとも押さえつけていた自分を
いかに生きることが出来るか。
それが、越えられなかった
壁を越えるカギになるかもしれません。