最初から正解だけが欲しい。
間違った回答はいらない。
正解だけを積み重ねていけば、
全てはうまく行くはず。
多かれ少なかれ、そう考えている人、
結構いるのではないでしょうか。
私自身も振り返ってみれば、
そう思っていた時期もあったな~
と思うのですが、
だったらどうして最初から
正解集を用意してくれていないんだろう?
わざわざ間違いを犯させるなんて、
人生は残酷だ、とか、恨みがましく
考えていたものです。
そういう時期って、
自分が生きている意味なんてなくて、
どうしようもなく自分が無価値に思えて
人生を放棄していた時期だったな
と思います。
どうせ自分が何やったって悪いことしか
ないのだから、正しい人の正しい行いを
コピーしてやれば、自分の生きていることの
害悪を防げるじゃないか。くらいに
思ってました。
これと同じように、
世界のどこかに正解集があると信じていて、
それを生きようと懸命になっている人は、
根本的に、自分の命の尊厳なんて
あまり信用してもいないし
大切にも思ってないんじゃないでしょうか。
傷つくことへの恐れがあるのかも
しれませんが、それでも、
懸命に生きている自分の歩みへの
慈しみがないのですね。
だから、間違いを犯す自分を
ゴミのように切って捨てられるのです。
こんな自分はいらない。
正解を答えられる自分だけが欲しい、と。
本当に大切なものを
最初からつかみ取れる感性があれば
良いのでしょうけれど、
人生はそうは行きません。
様々な経験を重ねて自分なりにやり尽くして、
納得したり理解したりして、要らないものが
そぎ落とされていく。
そんな風に進んでいきます。
たとえ最初からエッセンスをつかみ取る
感性があったとしても、色々経験を経れば、
最初受け取った解釈とは、全く違った
認識になっていくこともよくあります。
正解だと思ったものは、
いかようにも変わってしまうのですよね。
その千変万化するものの中に、
「自分は」何を見て体験するのか。
大切なのは、何かの基準に照らしての
正解を返すことではなく、
つかみ取ったものが正解であろうとなかろうと、
何事か「自分でつかみ取ることそのもの」
なんじゃないかなぁと思います。
だから、誰かに正解を教えてもらうとか
正解集を欲しがるなんてことは、
ナンセンスなんだろうと思っています。
もちろん、ここで言うのは、
人生の様々な選択や判断についてのことで、
正確な答えを求められる問題についての
話ではないことはご理解いただけると
思います。
積み重ねるほどに、
大切なものが変わっていく。
大切だと思っていたことが
次の段階に進んだら大切ではなくて、
もっと別のエッセンスが見えてくる。
人生は何とも、尽きることのない
ワンダーランドです。
そういう世界を生きていて、
誰かの正解を欲しがり続けていると、
どんどん自身の中の無価値感が
強くなっていくのではないかな
と思います。
今、自身の内からやって来るものを
信頼できずにいる人は、
どうやっても自分を自身で支えることが
できないので、誰かの正解に
支えてもらおうとしてしまいます。
そして、誰かの正解によっかかって
安心できている人は、
自分自身を生きることが出来ないまま、
それでいいのだと思ってしまうでしょう。
何の問題も感じられず、
心地良く過ごしているのに、わざわざ
その在り方を変えようと思うでしょうか?
多分ないですよね。
このまま、この人についてけばいいや
って思って、自分と対話することも
しないでしょう。
たとえしているつもりでも、
果たしてどうでしょうかね?
支えや指針は、
最終的に自分で立つための補助であり、
いずれは離れていくべきものです。
松葉づえはけがをしたときに使うもので、
自分で走れるようになった人が
いつまでも使うものではないですよね。
自分で創意工夫して自身と対話し、
自分なりの答えを人生に返していく。
それが人として健全な在り方だろうと
私は思っています。
自分なりの答えを世に問うことを
恐れることなかれ。
結果を引き受けて
立つことのできる自分で在るように。
そこから逃げている限りは、
何をし、積み重ねようと、
自分を見失い続けるのでしょうね。
そんなことを思いました。