呪いと聞くと、そのいかにも
おろどおどろしい響きに
自分には縁のないものと思う人もいれば、
結構身近に感じている方も
あるかもしれません。
では、自分が誰かや何かを呪っている
というと、多くの人は、
いやいや、そんなことはないです
と即座に否定するのではないでしょうか。
けれど、セッションしていると、
結構多いのですよね、呪っている人。
もちろん、私自身もかつて
がっつり呪っておりましたよ。
何を?っていうと、自分や世界を。
どうでしょうか、あなたは自分や世界を
呪っていないでしょうか?
呪いという言葉でピンとこなければ、
自分なんてダメだ、
自分は価値がない、
私は愛されない、
私なんていない方が良い、
死んだ方が良いなどなど。
これらはみんな、
自分に向けた呪いです。
結構メンタルが弱っているときなど、
割とよく湧いてくる思いではないでしょうか。
こういう言葉を四六時中頭の中で
ぐるぐるさせていれば、そりゃぁ
誰だって嫌でもおかしくなってきます。
そして、こうしてかけた呪いは、
しっかり効いてくるのです。
顕在意識ではそんなことはないと思っていても、
深くハートを澄ませて問いかけてみれば、
あぁ、自分は確かに呪っているな、
とわかることもあります。
自分を呪えば、呪われた自分になりますし、
世界を呪えば、自分が生きている世界は
呪われた世界になります。
今、あなたが生きているその世界や自分は、
呪われていますか?
今回は人から受けた呪いではなく、
自分自身がかけた呪いに特化して
書いていきますが、
人から受けたものも、実は
自分を呪い、世界を呪っている
その自分の写し鏡であるので、
原理としては一緒です。
ですので、解除の処方箋も同じになります。
なぜ、自分は自身を呪い、
世を呪ったのでしょうか?
幸せでいるときに、
誰かや何かを呪うことなんてないでしょう。
呪いをかけたとき、
自分はどんな思いでかけたのでしょうか?
多分、とても傷つき、怒り狂い、
憎しみに身を焦がしていたのではないでしょうか。
そうして、自分にこんな思いをさせた
対象を呪ったのでしょう。
自分を呪っているときは、たとえば
自分の無能さを、容姿の醜さを、
思うように動けない体を、
愛嬌のなさを、といった具合に。
これのせいで、自分はこんなに
人から蔑まれ、疎まれ、憎まれ、阻害される。
そしてこんなに惨めで辛い思いをする。
みんなこれのせいだ、という具合に
当たるんですね。
でもその見当も、実のところ的外れです。
自分がこんな扱いをされるのは、
無能さや容姿や体のせいではないのです。
根本的には、自分が自分のその要素を
蔑み、疎み、拒絶しているからなんですね。
自分が自身にしているように、
人からもされるのです。
これが鏡の法則です。
ここが本当にわからないと、
いつまでも自分のその要素を責め呪い、
相手に気に入られるように振舞おうと
自分を殺して承認を得ようとするでしょうし、
それが叶わぬとなれば、
絶望し、怒り狂い、呪うでしょう。
どれだけそれを続けようと、
自分を受け入れてくれない相手や世の中は、
鏡に映った自分自身ですので、
自分がその在り方を改めない限り、
鏡の中の像が変わることはありません。
自分が戦っているものの正体を
良く知ることです。
傷だらけになりながら自分と戦って、
一体誰が勝者だというのでしょう?
自作自演だと知りながら続けたいのなら、
それも選択です。
誰かが止めさせてくれるわけではないし、
自分でそれを止める苦しさも引き受けて、
止めるしかないのです。
呪い続けることも苦しいし、
呪いを止めることも苦しいのです。
でも、何かや誰かに八つ当たりした
その苦しさを引き受けることでしか、
この無限地獄を脱する術はありません。
その苦しさは、誰のせいでもない。
自分が作り出したものに他ならない。
このことを事実として受け入れるのは
意地を張り続けている自分の敗北に
感じられるかもしれません。
頭では分かったつもりになっても、
実際本当に憎み、呪い続けたものを
赦せるかと問われたら、どうでしょう。
諦めの蓋をするのでもなく、
自分の気持ちを誤魔化すのでもなく、
一切の逃避なく受け止め、
赦すことが出来たとき、
あなたは自分や世界から赦され、
あの無限地獄は消え去るでしょう。
早く楽になりたいからと言って、
中途半場にわかったつもりになって
口先だけで収めないことです。
そういうご都合主義には、
自分に対する誠がありません。
誠は、方法論やメソッドではなく、
在り方です。
在り方の領域に
方法論を持ち込まぬように。
伝わる人には、伝わるかな。
必要な人に、届きますように。