口先だけなら何とでも言える。
けれども、言っていることと
在り方が一致しているのかどうか。
これは、常に誰であっても
問われることだろうと思うのですが、
ことセッションにおいては、
これを見極める嗅覚がものを言います。
解放されたいです。
自立したいです。
命の導きに従って生きたいです。
私はそれを望んでいます。
みなさん、そうおっしゃいます。
けれど、頭では確かにそう思っているのは
伝わってきますが、深いところでは
そうは思っていない意識を読み取ることが
しばしばあります。
本人も、よ~く自分の心に向き合って、
頭の思い込みを外して真実を感じ取ろうと
しなければ、気づきません。
一番難しいのは、
自分はそう望んでいると思い込んでいて、
実際に、本当にそうなのかということを
確かめようとしていない人です。
そう望んでいるに決まっているじゃないか、
というところしか見ておらず、
肚を割って、決めつけないで
自分自身の真実と対話することが
出来ていないのですね。
そういう態度の人は、
自分自身に対してだけではなく、
他の人に対しても、同じように
決めつけた見方をしているはずです。
だから、相手のことを理解していると
本人は思っていても、実際は
聞く耳を持っておらず、
そうであるべき、そうであるはず、
という姿しか見ていないでしょう。
本当に自分がそれを望んでいるというのなら、
今この瞬間にそれが実現されても
良いのかどうか。
いつか、遠い(近い)未来にそれが
実現されるのではなく、
たった今、まさにこの自分がそれを
体現する準備はできているのかどうか。
そこに抵抗が微塵もなく、
体現できているイメージが湧くでしょうか。
もし本当に抵抗が全くなく、
イメージできると言えるのなら、
既にそれは実現しているはずなのです。
そうはなっていないのだとしたら、
いくらそれを何かや誰かのせいにしようと、
根本的には自分自身でそうしているのです。
いつかそうなりたい自分と、
既にその本質を体現している自分とは、
何が違っているでしょうか。
決して、同じではないはずです。
その違っている部分を、
この瞬間に変えても良いのかどうか。
自分の力で立つと心底決めた人が、
立てるかどうかと心配することが
あるでしょうか。
どうして立てない可能性に
心を迷わせる必要があるでしょうか。
今、立てないのなら、
どうやったら立てるか、
夢中で模索するのみです。
迷い、心配している時点で、
その人は決めていないのです。
自分は、立とうとしていない。
立つことを望んでいない、
立つことを恐れている、
ということを認めなければなりません。
今その状態にぬくぬくとまどろみ、
心地良さを感じている自分を
認めなければなりません。
それを認めて初めて、
立つことを引きとどめているものの正体を知り、
自分が本当に在るべき姿を見ることが
できるようになります。
それは、頭でこう在るべきと考えていた
姿とは違うかもしれません。
立ちたい、進みたいと思ってあれほど
頑張ってきたのに、本当は立ちたくない、
進みたくもない、と思っている自分を
受け入れることは、非常に葛藤が
あるかもしれません。
そんな自分にがっかりし、
まるで可能性が断たれてしまったかのように
悲しみや怒りが湧いてくる人も
あるでしょう。
それでもなお、その自分と戦わず、
受け入れ、対話し続けていくことが
大事なのですよね。
力でどれだけねじ伏せたところで、
葛藤は消えることはありませんし、
マスターしたことにはならないのです。
そのような対話は、
人から言われたからやるようなもの
ではありません。
義務感からやらなければ、
と思ってやるのも違います。
それはただ、
やらずにはいられないから、
避けては通っていけないものだから
という必然性が自分の中にないと、
やり通すことはできないでしょう。
その必然性が自分の中にある人は幸いです。
それが歩み続ける原動力になり、
必ず内なる導きにつなげてくれるでしょう。
内に感じる導きを、
何よりも大切にするように。
誰かと比べることなく、
誰かに確認するのでもなく、
ただ、自身の内に確認するように。
もしそれで失敗したと思った時は、
内なる導きに従ったと思うその時に、
マインドの打算や恐れなどが
入り込んでいなかったか、
よく確認しましょう。
そういう不純物とごちゃまぜにした意識では
純粋に内なる声を拾うことはできません。
自分で、その違いを識別できる感覚を
磨くように。
容易く、内なる導きに不信を抱き、
離れぬように。
そういう作業を抜きにして、
本当に信頼をもって導きに従うことは
できないでしょう。
それは、妄信するようなものではなく、
紛れもない確信とともに歩むものなのです。
そういう歩みの体験を重ねていくように。
導きとともに在るあなたの歩みに祝福を。