思うようにならない苦しさというのは
セッションをしていても良く出てくる
テーマではあるのですが、
以前ほど苦しまなくなったものの、
私の中にも馴染み深いこの思いがあります。
先日、毎回駆り立てられるように
頑張らなくっちゃ、と思っていることに対して
もう頑張らないでいられるように
なりたいな、としみじみ思いました。
これまでにも何度もそう思ってきたのですが、
なかなか卒業できていませんね。(^^;
そこでこの思いを掘り下げていったところ、
深い深い絶望感に行き当たりました。
私は、自分の中に魂の導きや恩寵を
確かに感じているけれど、
同時に、思うようにならない苦しみも
抱えていて、
それらはどちらも私にとっては真実で、
けれども分離したまま、決して交わることなく
存在していました。
その状態でいることは、
私の世界観の整合性を阻害し、
葛藤とある種の機能不全を
引き起こしていました。
それを、頭でどうにか言い繕って、
もっともらしい言い訳で納得
させていたのですが、
そんなものでどうにかなるほど、
この絶望感は甘くはありませんでした。
深く恩寵で私を導きながら、
同時に魂の底から凍り付くような絶望を
味わわせられることに、整合性が取れる
理屈などあろうはずもありません。
ただただその芯から凍てつくような
絶望の感触に打ちひしがれている自分を
恩寵から切り離して居るしかありませんでした。
これを神から与えられた試練だなんだと
言われたところで、奮い立って越えられる
ようなものでもなかったのです。
というか、奮い立てばまた突き落とされ、
絶望するという無限ループになるだけで、
もしこれを越えられるとしたら、
奮い立つという方法は多分違うのだろうと
思っていました。
私は、どうにかこの絶望が統合されて、
恩寵一色に自分が染められるように
なることを無意識にも求めていたのですが、
ふと、それも違う、と思いました。
私は絶望と恩寵を分離していたけれど、
そもそもそれが間違いだったのかもしれない。
絶望の瞬間にも、恩寵とともに在ることは
可能なのではないか?と思い至りました。
そこで、分離を解いて、
凍てつくような絶望を感じながら、
その瞬間にも恩寵から離れないで居ようと
挑戦してみました。
そうしたら、それは可能だったのですね。
恩寵のキャンバスの上に、
絶望は描けるのでした。
その瞬間に、凍てつくような絶望の感触が
変わりました。
望みは絶たれたのだけれど、
一人ぼっちで孤立はしていないというか、
見捨てられていないというか、
そもそも見捨てられるようなものではなく、
決して離れはしないもの。
そういうものに触れながら、
自分の思うようにはならなかった
という現実に対峙している感触でした。
それは単純に、その望みがエゴだった
とかそういう理屈で簡単に説明できる
ようなものでもなく、
絶望に至る、在り方を問われても
いるようでした。
導きは、私が心地良く在るように
都合よく何かをしてくれるものではない
ということ。
頭ではよくわかっているけれど、
心では受け入れ難かった思いが
また突き付けられました。
自分の望みを導きよりも優先させたとき、
導きや恩寵からの分離と絶望が起こります。
今のこの優先順位を、
ひっくり返すことができるだろうか。
その準備がどれだけ自分にできているだろうか。
これまでも、段階的にではありますが、
そういう問いかけがあるたびに
少しずつ導きを選んで進んできました。
それによって徐々に根深くあった
神への恨みも解けていったのですが、
根本的な不信感は残り続けていたのですね。
内なる神を信じたら、
あの恐ろしい絶望に堕ちてしまうという
恐れが常に、分離の壁を作らせていました。
けれども、その堕ちた絶望の中でも
恩寵が消えていないのだとしたら。
絶望の意味合い、質感が変わりますね。
私は昔から、いくら恩寵だ神だと言っても、
地獄の様な責め苦にもし自分が遭ったなら、
その中で正気を保てる自信はないな、と
思っていました。
神経が焼き切れるような苦痛の中で、
私はきっと自分を見失ってしまう。
その思いが常にどこかにあったのです。
でも、その恐怖感も、
今は少し緩んでいる気がします。
頭で考えた理屈で
恩寵と絶望を分離させてしまったけれど、
本来はそんな風につじつま合わせをしなくて
良かったんですね。
そのことが分かって、
安堵している自分がいます。
そして、導きの光が、
自分の中でよりクリアに、
感じられるようにもなったようです。
毎瞬を、この光とともに在るように。