私たちは楽になりたい、解放されたい、
本当に魂が望む人生を生きたい
と願いつつ、その一方で、しばしば
それが叶うことを恐れていたりします。
そうならないように、
一生懸命それが叶わない理由を握りしめて
これがいけないんだ!とひどく恨んでいたり
するのです。
まさに自作自演の悲喜劇。
でも、あまりにも迫真の演技で
没入し切っているので、
そうそう気が付かないんですね。
自分で目が覚めて、
な~んだ!結局自分が望んでないだけじゃん!
って思えれば笑い話になりますが、
そうなるまでは、
自ら被害者ポジションをキープしに行って、
相手に恨みがましい念を飛ばしつつ
我が身の不幸を嘆き続けます。
恨まれてる相手にしてみたら
たまったものじゃないですが、
わざわざそんな回りくどいことをしなくても、
望んでいないならそれで、誰のせいにも
しなくて良いはずです。
にもかかわらず、責任転嫁をしてしまうのは、
自分で責任を引き受けたくないから、
言い訳が欲しいのですよね。
自分の意志と選択で
今こうして在るという現実を
認めることから逃げているのです。
なぜ逃げているのか。
引き受けたときに直面するものによって
浮上する感情や感覚を、
味わいたくないからでしょう。
押しつぶされそうなプレッシャーだったり、
途方に暮れる孤独感や混乱、不安や悲しみ
無力感などなど。
それらに触れたら、
自分を見失ってしまいそうになるから、
どうしてもそれは避けたいのです。
けれど、
自分が最も逃げているものの核心を
捉えることが出来たなら、
今度はそれに対処する術を身につければ、
越えられなかった壁を越えていく
ことができます。
それができれば、
自分が引き受けるべき責任を引き受けて、
誰のせいにもせず自分の意志と選択によって
人生を歩んでいけます。
責任転嫁をしながら、
誰かや何かを恨みつつ生きるのとは
雲泥の差の、力強さと輝きと充実感に満ちた
素晴らしい人生が始まります。
そうしたら、もう誰かを恨む暇など
微塵もないでしょう。
夢中で自分自身の可能性を
追究していくのみになります。
私たちが普段当たり前のように
因果関係を紐づけて考えていることは、
よ~く突き詰めていけば、
実は全く関係なかったり、
検討違いであることがよくあります。
けれど、
まずは犯人捜しや濡れ衣を着せる生贄を
作ることを止めて、自分の感情を引き受け、
統合したうえで改めてその出来事に向き合えば、
今まで見えなかった扉が見えてきます。
他者をコントロールする必要もなく、
自分自身の在り方ひとつで表れる
別の世界があるんですね。
そのときにようやく、
誰も犯人じゃなかった。結局は自分だった。
と理解するのです。
恨みを抱えてしまうには、
それ相応の理由があるかもしれません。
社会的に見たら、その恨みには
正当性があるのでしょう。
それでもなお、
その収まらない恨みという感情には、
自分に対しての、魂からの問いかけがある
と私には思えます。
その出来事の中に、
自らの改めるべき要素がなかったか。
恨みに囚われている心では、
その問いかけにすら気づけないでしょう。
恨むということもなかなかに
苦しいことです。
でも、その苦しさを選んでいるのは
他でもない自分なのだと認めて、
自分自身に向き合う苦しさを引き受けたなら、
あなたはそこで、大きく飛躍します。
あなたは自分で
別の可能性の扉を開いたのです。
その扉は、これまでもそこにあったけれど、
あなたが敢えて選ばなかった扉だとも
言えます。
地獄から抜け出す扉は、
いつでもすくそこにあるのです。
けれど、毎瞬、どれだけその扉を
探そうとしているでしょうか。
案外、大して探さずに端から諦めて
人生の主導権を投げ出してしまっている
のかもしれませんね。
一番の大敵は、自分自身の負の感情に
飲み込まれることです。
どれだけそれに対処する力がついているかが
毎瞬の状況から可能性の扉を見つけ出す力に
直結します。
飲み込まれず、踏みとどまって
マスターする。
それができるほどに、
巨大な岩の如く立ちはだかっていた
現実が、動いていきます。
私たちの中には、実に偉大な力が
未だ眠っているのです。
その力を発揮するには、
自分が自身の人生の主体者として
在ることが不可欠です。
そのポジションでいるとき、
私たちは偉大なる力にアクセスできるのです。