セッションで、込み入った人生の悩みに
確かな道筋を見出そうとするとき、
私が見ている指針はシンプルで、
その人自身が引き受けるべき責任を
引き受けることと、
引き受けるべきでない責任を手離し、
本来の持ち主に返すということに尽きます。
これは、たとえば自分の人生を諦め、
見捨て、逃避している人に対して
自身の人生に向き直り、その責任を
果たすように導くことだったり、
自分の中に浮上している恐れや苦痛を
取り除きたいが故に他者をコントロール
しようとしている人に対して、まずは
自身の感情を受け止めるように促したり、
あるいは、体の中に入り込んで
人の人生を様々にコントロールしようと
してくる存在に対して、介入を許さず、
自身の人生に帰るように導いたり、
また、入り込まれている人に対しても、
自分をお留守にしたり、
外部の存在に依存したりしないで、
しっかりと自分自身の人生を生きるように
導くなど、
セッションでやる様々な対処のベースに
この見方があるんですね。
そして、
誰が何の責任をどう引き受けるのか、
その責任を引き受けられる状態に
当事者をどう導くのか、ということが
何重にも重なり合いながら浮上してくるのを
あちこちに目配せしながら、同時進行で
さばいていくわけです。
掘り下げをしていくと、
大抵いくつもの伏線が浮上してきて、
行きつ戻りつしながらそれらを一つ一つ統合し、
完了した伏線を最後に合わせて
一本筋道の通ったハートの真実に
ぴったりと収めていく。
そんなイメージの作業をしています。
目に見える存在でも見えない存在でも、
他者に介入して問題をこじらせる存在は、
ほぼ間違いなく自分自身の責任領域に対して
責任を果たしていません。
にも拘らず、というか、だからこそ
他者に介入したり、その人の人生を乗っ取ったりして
引っ搔き回すんですね。
そこに、介入しようとしている存在の
人生に対するリスペクトはありません。
たとえ口先で何と言おうとも、
不用意に他者の領域に踏み込んでくる存在は
人間でも何でも、ロクな存在じゃないですね。
本当に霊格の高い存在であるならば、
その人の中に入り込んで主導権を奪うようなことは
しないだろうと私は思います。
たとえどんなにその人が未熟であったとしても、
その人の命の主体性を尊重しながら、
教え諭し、導いていくでしょう。
そうしていけるだけの忍耐力や寛容さ、
本質を見抜き、的確に導けるだけの智慧を
備えているからこそできることです。
たまに、自分の中に「高次の存在」を宿らせて
その存在の言葉を代弁したりパワーを行使したり
することが、自分も霊格が高くなることだと
思っている人を見かけるのですが、
それは大いなる勘違いだと私は思います。
そもそも、強い力=高次の力で、
そういう力を持っている存在=高次の存在
というわけでは必ずしもありません。
強い力でも、その質は様々だし、
そもそも、何をもってして高次だというのか、
その概念自体が本人もあまり理解していない
人は結構いるような気がします。
いかにも偉そうに、高次の存在ぶっている
存在も確かに見かけたことはありますが、
本当に霊格の素晴らしい存在が、
いかにも仰々しく偉ぶりますかね?
本当に依り代のような役目を持っている
人もいるのだと思いますが、
そういう人は、降ろす存在のステイタスによって
自分の価値を見出すのではなく、
その役目を果たすことによって、
自分自身の本質を磨くだろうと思います。
いずれにせよ、
役目を果たすことを、
自分自身の本質を生きることからの
逃避には使わないでしょう。
どんなお役目だろうと使命だろうと、
それを果たすことはもちろん
尊く大事だろうけれど、
そのことが自分自身の本質を磨き、
高めていくようになっていないのであれば、
それは正しい道を歩んではいないと思います。
自身の最も大切な責任というのは、
自分自身の人生をその当事者として、
最大限に生きるということだと思います。
だから、自分を殺して生きるとか、
この人生から逃げ出すとか見捨てる
とかいうことほど、命に対して
冒涜的なことはないとさえ思います。
自身の人生を最大限生きることと、
使命を果たすことを相反するもののように
捉えている方をしばしば見かけるのですが、
これは完全に一致するものであり、
相反することはないと私は思っています。
もし、そうは思えないというのであれば、
どこかで、使命を果たすことや
自分の人生を生きることの意味や本質を
取り違えているのだろうと思います。
この部分がクリアにならないと、
人生はどこかしら整合性が取れず、
必ず葛藤を抱えることになるでしょう。
自分が本当に果たすべき責任とは何なのか。
良く良く問うてみることです。