来週19日は恒例の
満月のオンライン瞑想会です。
お一人お一人エネルギーをリーディングして
アドバイスやメッセージなどお伝えし、
エネルギ調整とチャージを行っていきます。
この日は部分月食だそうで、
19時16分~20時42分まで続き、
最大になるのは19時59分ごろと、
丁度瞑想会の時間中に起こります。
今回は特にエネルギーが動きそうですね。
参加ご希望の方は、こちらからどうぞ。
http://healing-gate.com/blog/seminner/fullmoonmeditationmeeting/
さて。
今日はちょっとまとまらないのですが、
喪失感に関して、諸々思うところを
徒然書いておこうと思います。
日々ルーティンワークに追われていると、
昨日と同じように今日が、
今日と同じように明日が続いていくのだと
ついつい思ってしまいますが、
それは当たり前ではないのだ、
ということを思い起こさせる出来事が
個人的に先月から続いていて、
色々思うところがあります。
一つは、もう10年近くお世話になっていた
お店が閉店してしまって、ものすごく
がっかりしたこと。
毎週のように買い物に行って、
必需品を購入していたので、
そこがなくなると他で手に入りにくい
ものもあって、結構困るのですよね。
まさか閉店する日が来るなんて
思ってもみなかったので、
結構ショックでした。
最終日に、随分と品物が整理されて
ガラ~ンとした店内に、お店の方が
みなさん、最後にお客さんのお顔を見に
出ていて名残を惜しんだのですが、
しばらく淋しいな、淋しいな、と
自分でも不思議なくらいに
相当な喪失感がありました。
そこでワークをしてその喪失感を
じっくりしっかり受け止めたら、
以後は事実は事実として受け止めて、
今では全く気にならなくなりました。
もう一つの出来事は、
子供の頃から家族ぐるみでお世話になっていた
近所のおじさんが今月初めに亡くなったことです。
随分前から透析をしていて、
今年夏には例のお注射も接種していたので
心配していたのですが、
最近は呂律も回らなくなって、
びっくりするほど衰弱した様子だったので、
先月末に救急車で運ばれた時は、
嫌な予感がどこかでしていました。
ストレッチャーで車に乗った時は
まだ意識がしっかりしていたのですが、
私は何となくその姿が、おじさんを見る
最後になるかもしれないと思って、
手を振ったのでした。
それから1週間後、訃報が来ました。
二度と元には戻らない時間や姿というものを
強く感じたここ最近なのですが、
いつもあった場所がないとか、
毎日のように見ていた人の姿が
二度と見られないというのは、
とても不思議な感じです。
それらの存在が、紛れもなく
自分の一部を構成していたのだな、
ということをしみじみ感じさせられます。
そう考えると、自分と言う存在は、
この肉体の内側のことではないのですね。
「私」と言う意識が体験するもののすべてが、
肉体の枠組みを超えて、自分なのでした。
やって来るもの、去っていくもの、
得たもの、失ったもの、変化していくものは
私の本質ではないというのが賢者の教えですが、
だとしたら、喪失を体験して
どこかバランスが取れないこの自分は
一体なんだろうな、などとつらつら
考えています。
過去に執着はしていないけれど、
無意識に組み込まれた存在の記憶に
自分がどれだけ支えられ、
自動ルーティンになっているかを
思い知らされています。
一方で、目覚めた意識の師は、
今この瞬間に目の前に在るものと
共に在るように、と常に生徒たちに
教えていました。
そういう人の場合は、
こうした喪失感と言うものに悩まされることは
ひょっとしたら、あまりないのかもしれませんね。
わからないけれど。
マインドの記憶に自分を明け渡していない、
支えられてもいない、常に今この瞬間に在る
というのは、これまで私が思っていたよりも
はるかにすごいことだな、と、今になって
気づきました。
喪失感から、二度とない時間を思って
過去に浸るつもりはないけれど、
マインドの記憶から自立するという視点は
これまでなかったので、その概念には
非常に衝撃を受けています。
過去もそうですが、未来も同じで、
いつか思い描いている未来によって
自分を支えているところも
あると思います。
それも止めて、ただこの瞬間に
何が起こっても完全燃焼で生きられるか。
よく、今日を人生最後の日だと思って生きる
と言うことを言われますが、
過去と未来から自立した人は、
永遠を生きるのかもしれないな、
と思いました。
私も、そのように生きられたら。
過去と未来を失う準備はできただろうか。
そんな風に問う、今日この頃でした。