感情解放ワークをしていると、
体の中に様々な未完了の感情のエネルギーが
あちこちに残っているのだな、というのを
日々実感します。
そしてそのエネルギーがしこりのようになって、
実際に肉体的な不調につながっていることも
しばしば見かけます。
簡単なところで言えば、
よくある肩こりや眼精疲労など、
パソコンで目を使いすぎたからとか
細かい作業をしたからだ、とか
頭で考えて本人も納得している
ことが多いのですが、
実際にその不調の感覚に心を澄ませ、
対話をしてみると、実は別の理由があった
と言うことも多々あります。
目の奥が痛いとおっしゃっていた
ある方の場合は、どうしても見たくないもの
があって、それを見ることの心理的苦痛が
肉体的に表れていたというケースがあったり、
肩凝りはいつものことだから、
とおっしゃっていたある方の場合は、
会社で理不尽に仕事を押し付けられる
プレッシャーや怒りなどの感情が
凝り固まっていたりしました。
体の不快な症状に意識を向けるのは
なかなかに辛いものですが、
できる範囲で、
気づいてるよ、
何を伝えたいんだろう?
何でも聞くから、言ってごらん?
と言う具合に聞いてあげると、
思わぬ言葉がふっと上がってきたり、
途端に何かの気持ちがぶわっと
噴き上がってくる、なんてこともあります。
もちろん、そう呼び掛けても
さっぱり何も聞こえてこない
と言うケースもあるのですが、
それは聞く側の姿勢ができていない、
つまり、聞く耳を持っていない
と言うことを意味しています。
本当にそこに耳を傾けてしまったら、
ショックを受けてしまうとか、
泣き崩れてしまう、
立っていられないなどの恐れがあって、
受け止められないので蓋をしているんですね。
心の声を閉ざしているので、
その状態に耐えきれない自分が、
体で叫んでいるわけです。
だから私は、「体の痛みは心の叫び」
だとお伝えしているのです。
心の叫びも聞いてもらえず、
体の叫びも聞いてもらえなかったら、
絶望と怒りに打ち震えるしかないでしょう。
そういう気持ちのエネルギーは、
どうなっていくのでしょうか?
深刻な体の病になっていくか、
精神に深刻なダメージを負って狂うか、
しかないのではないでしょうか。
自分をそんな状態に追い込んでまで、
逃げ続けるのでしょうか?
死んだら逃げ切り完了になるのでしょうか?
これまで様々な方のセッションをしてきて、
多分そうはならないのだろうな、
と私は思っています。
しばしば、別の人生で自ら死を選んだ
ストーリーを持つ方をお見掛けしますが、
そういう方に共通するのは、
暗く生命力のないところで
じっとうずくまっているような気配を
感じるのですよね。
今生でも、心の奥深くに絶望と諦めを宿して
どこか、生きながらに死んでいるような
人生を歩んでいることが多いように思います。
でも、そういう方でも、
自ら死を選んだ人生での未完了の課題を
完了させると、どろん、と絶望の中に
まどろんでいた気配に生気が戻ってきて、
今生の人生の感覚も、明るく回復していきます。
人生で何があったとしても、
起こった出来事自体が重要なのではなく、
結局は「自分がどう在ったか」が
全てなのだと思います。
別の人生で、あるいは今生のある局面から
逃げたのなら、その逃げた局面を
再び体験する機会が巡ってくるでしょう。
そのときに、また逃げてしまうのか、
今度こそその局面を乗り越えていくのかで
その次に展開する人生が違ってきます。
限界ギリギリどころか、それをはるかに
越えた経験をするのは、かつて逃げた局面を
リカバリーしようとしているのかもしれませんし、
単純に、魂がより高度なステージに
進もうとするときの挑戦なのかもしれません。
まぁ、いずれにせよ、
自分の人生に展開しているその局面を
どう捉えてどう対処するにしても、
賢明に判断して最善を尽くすことだと思います。
気持ちを腐らせて被害者意識たっぷりに
不平不満を募らせても、
同じような現実が続いていくだけでしょう。
越えるのが辛くて自分を信じられず、
力がないとしか思えないときでも、
越えていくことを望むのなら、
越えていくための力を求め、祈ることです。
私にその力をお与えください。そして、
導きとサポートを与えてくださいますように、
と言う具合に。
現状がどうであれ、
自分がどうなりたいのか、
どこへ向かっていきたいのかを
明確に求めましょう。
あなたが求めたように、
導きはやってくるでしょう。
心や体や魂が叫ぶのなら、
それに応えるのはあなたの、
あなた自身に対する責務です。
他の誰に求めるより先に、
まず自分が自分自身に応えなければなりません。
応え続けていく中で、
あなたの人生は開けていくでしょう。