何事も、自分のところにあるものは、
たとえそれが血の滲むような努力で
獲得したものであったとしても、
授かったものなのだな、と思うことが
ありました。
子供も、作るものではなく、
授かりもの、というのと同じですね。
どんなに努力を重ねても、
得られぬ時は得られぬもの。
にもかかわらず、得られたのだとしたら、
それは紛れもなく、得難い幸運なのです。
ましてや、大した努力もせずに
自分のところにあるのだとしたら、
それを恩寵と言わずして
何と言いましょう。
誰にどんな恩寵が訪れるのかは
人間目線の善悪では計れないものです。
最低最悪の極悪人と見えるような人に
信じられないくらいの富や権力、財が
集まることも珍しくはないことですし、
とても真面目で誠実な努力家であっても、
日の目を見ずにいる人も数多、います。
なぜ、と理不尽に感じたとしても、
天の深い意図は、人間の価値観では
容易に測れるものではありません。
けれども、与えられた恩寵には、
間違いなく、深淵なる天の意図があると
私は思っていて、
そこには、何十、何百、それ以上の
織り糸が複雑に絡み合い、重ねられた
物語があるのだと思います。
私たち通常の人間意識で理解できるのは、
そのほんの僅かな部分のみだから、
知り様もないのです。
たくさんの人の魂の奥に記憶された
様々な人生のストーリーを垣間見るにつけ、
一つの人生の中でも相当な浮き沈みが
あることもありますし、
今とても羽振りのいい人も、
別の人生では辛酸を舐めた極貧生活を
経験していたり、
聖者の如く生きた人生の記憶がある一方、
鬼畜のような冷酷な人生の記憶があったり、
娼婦、遊女の人生もあれば、
同時に修道女のような禁欲的な
人生の経験があったり、
人々を助け、癒したヒーラーの人生がある一方、
同じ力で世界に地獄を作り出した人生が
あったりもします。
決して、単純なものではなく、
矛盾したものが同時にあるのが
人間という多次元的な存在なのです。
よく、神は愛だという言葉があるけれど、
人間の都合の良いイメージの愛では
計れないのが神ではないでしょうか。
神がいるというのなら、
こんなに悲惨なことが起こるはずがない
と神を恨む人は多いけれど、
神は人間の都合で働くわけではありません。
私は、自分自身の深奥に
神のリアルを感じているけれど、
それも、ほんの入り口。
この粗い意識で、
どこまで認識できるのか。
この程度の私だけれど、
人生のほんの一瞬、それに触れたときは、
ただひたすら、有難いとしか言いようのない
思いでいっぱいになりました。
その恩寵というものの深さが、
人間の思い描くそれをはるかに超えていて、
あり得ないほどの愛を注がれていることに
ただ打ち震えるしかなくなるのです。
けれど、そんな状態から通常の意識に
戻ってくると、また不平不満、不足感で
いっぱいのいつもの日常が始まります。
そうして、
あれほどまでに与えられていることに
受け取れないほどの愛を感じていたのに、
どうして私には無いのだろう、
私は何も持っていない、与えられていない
と不満に思うのです。
そんな私たちの状態を見て
インドの聖者ラマナ・マハルシは、
「恩寵の海の中にいて喉が渇いたと言う魚のようだ」
と言いました。
まさに、まさに。
よく、
失って初めて気づくものの有難さと言いますが、
そのものの中に浸ってぬくぬくしてるときは、
どうにも気づかないもののようです。
改めて、今自分の範疇にあるものを見回し、
確認してみると、自分がお金を出して買ったもの、
努力して獲得したもの、努力なく突然
自分のところにやってきたもの、
親から与えられたものなどなどあります。
けれど、どれ一つ取っても、
神、あるいは宇宙の同意なく私のところに
やってきたものは一つもないことがわかります。
自分自身のこの肉体、この精神、
この能力でさえも。
今私がここにこのようにして在り、
成していること、使っているすべては、
紛れもなく神の恩寵なのです。
同時に、今ここにないもの、ことも、
一見そうは思えなくても、
恩寵なのです。
不満に思ってしまうことの奥に、
何を見るか。
こじつけで、無理やりこれで良かったんだ
と思い込むための言い訳ではなく、
本当にその恩寵に触れることができるくらいに
そのことが理解できたとき、
もはや望む必要すらないくらいに、
それは既に手に入っていることでしょう。