人生、苦しい時ほど恩寵が深いものだと
思うのですが、その渦中にいるときに、
どれだけそのことに気づける
ものでしょうか。
苦境に陥った時に、
側にいてくれる人、助けてくれる人が
本当の友人であるということも
よく言われますが、
同時に、そのときに自分がどう振舞うのか、
自分自身の真価が試されているとき
でもあると思います。
苦しい状況というのは嫌なものですが、
そういう時は、学びの吸収力や集中力が
普段とは比べ物にならないくらいに
高まっていたりしますね。
そして、そういう状況でした経験のすべては、
実際に自分の生の体験に裏打ちされたもの
ですから、良くも悪くも自分の血肉になり
魂に刻まれます。
だからこそ、余計にどう過ごすのか
というのは重要です。
ギリギリの心身の状況で取れる行動、
判断というのは、それまでの生き方の
集大成がそこに表れるものです。
肝心なところで、魔がさすとか、
人を裏切ってしまったり見捨てたり、
諦めてしまったり、
あるいは、信義を貫き通したとか、
手を抜かなかったとか、
自分を犠牲にしても他者に尽くしたとか、
普段はきれいないことを言い、
そこそこ行動できていたとしても、
そういうところでどういう行動を取るのかで、
その理想が本当に血肉になっているのかが
表れるのです。
その差はほんの紙一重であるようで、
末にはものすごく大きな違いになって
人生を左右するほどのものに
なったりもするでしょう。
そのほんの少しの違いを左右するのは
何だろうと考えてみれば、
とても多くの要因があるのでしょうけれど、
日々積み重ねてきた徳分だとか、
自分や周囲にどれだけ正直で、
誠実であったかとか、
丁寧に日常を生きてきたか、
何を大切にしてきたか
なんじゃないかな、と思います。
そういうのは一朝一夕できるものではなくて、
だからこそ、すべてがはぎ取られた後でも
残るものなのでしょう。
逆に言えば、心の鎧が厚い人ほど、
逆境はその鎧をはぎ取って、
素の自分に帰らせてくれる
またとないチャンスだったりします。
自分が本当はどれほどのものなのか、
否応なくわかりますよね。
そしてその状態で、身をもって、
しみじみと骨の髄まで感じるものが
あるでしょう。
私自身、それほどひどい逆境というのは
ありませんでしたが、それでも
苦しい時はありました。
これまでの人生を振り返って、
本当に深い恩寵の中にいたなと感じるのは、
やはりその一番苦しいときでした。
いつ抜けるとも知らぬ、
暗い無限トンネルを行くような中で、
とても心細かったけれど、
常に深い恩寵を感じていました。
だから歩み切れたし、今があるのですが、
見栄や世間体や色々な言い訳や屁理屈が
はぎ取られた後でないと、感じられない、
わからないものがあるのですね。
逆境というのは、そのために
起こるものなのかもしれません。
人生において、
より純粋に、本質的なものに触れていく
成長や進化を願うならば、
安心安全ばかりが良いわけでもない
と言えそうです。
しばしば、秘教的儀式においては
死と再生が言われますが、
新しく生まれるためには
必然的に、死ぬ必要があります。
良く生きるためには
良く死なねばならず、
良く死ぬためには
良く生きなければなりません。
そういう節目を潜り抜けるたびに、
私たちは枯れた生命力を復活させて、
みずみずしい命の旅路を
続けることができるのです。
だから、節目を恐れることなかれ。
目先の生死にとらわれすぎないように。
生死を越えて流れていく命を思うとき、
何をもってして良い人生とするのか。
良く生き、良く死んだと思えるのか。
今の時代は、恐怖をあおるものが
たくさんあって、人生の素晴らしいもの、
美しいものを忘れてしまいがちだけれど、
私たちの人生は、本来
人間の作り出した枠組みの中に
押し込められるようなものじゃありません。
もっと神秘やワンダーに溢れた
ものであったはず。
人の世の世知辛さや煩雑さ、理不尽さに
身を縮こまらせ、心まで委縮してしまったときは、
身近なものの中に、人間の作り出した枠組みを
離れさせてくれるものに意識を向けて、
チューニングしてみましょう。
生死を越えて、今を生きることだけに
集中してみるのです。
絶え間なく続く、私たちの本質を忘れさせる
催眠術、暗示の数々に飲み込まれないように。
今は、多くの人がそういう刷り込まれた
窮屈な枠組みをぶち破っていく
そういう時代なのかな、と思いました。