吹く風にも秋の気配を感じるようになって
暦はいつの間にやら9月ですね。
今年もあと4か月となりました。
本当に怒涛の2021年、この年末を
どう迎えていくか。
私にとっては、
来るべき年を視野に入れつつ、
ぼちぼち薄ぼんやりと考え始める
季節です。
というのも、毎年大体9月ごろから
チマチマ大掃除を始めるので、
前年はまだ必要!と思っていたものが、
今年になってみるとあっさり、
これ要らんわってなる心境が
面白かったりします。
自分にとっての大事なものが、
その時々に変わっていくんですよね。
自分の本質からかけ離れたものが
剥がれ落ちていく場合もあれば、
より深まって次のステージに
移行するが故に、必要なくなっていく
場合もあり、
やり尽くしたが故に
卒業していくものもあり。
自分も、周囲も変化していく中で、
一時ご縁をいただいたことの貴重さを
改めて思うのでした。
この1か月は、少し落ち着いて
自分の内面に深く潜ってみよう
と思っています。
そう考えたのも、
自分に真正面から向き合った時に、
どうしても意識がそれてしまう
不快感があるからです。
私がよりどころとしている
内なる神と私との間に不信を持っている
ということに、気づいてしまいました。
内なる神に触れてから、
その存在自体に疑念を抱くことは
もちろんないのですが、
(それは概念ではなくリアルであり、
いかなる宗教の神でもありません)
その存在が私の人生において、
本当に常に導いてくれているのか、
守ってくれるのか、という部分が
頭優先の概念であったということに
気づいたのです。
それは、信念となっていて、
不安が浮上するたびに、
強固な信念をかぶせて打ち消していた
のでした。
信念はマインドの概念の領域ですから、
私はまだ、そのことに対して
リアルに触れていなかったことになります。
世の多くの人は、どこかで
神への不信や怒り、恨みなどを
持っているものです。
日常的にはそんなことを考えたこともなくても、
掘り下げていくと、今生や別の人生の記憶の中に
神への尋常ならざる怒りや恨みとともに、
断絶を抱えているのをセッションでも
多く見てきました。
あれほど信心していたのに、
願いが叶わなかった、裏切られた
と感じさせる経験があったのでしょう。
長く私のブログを読んでくださっている方は
よくご存じかと思いますが、
私自身にも深い神への恨み、怒り、
不信の思いが根深くありました。
十字架に磔になった記憶もあるし、
死ぬほどの拷問を受けた記憶も
浮上してきたことがあります。
神と深くかかわったが故に経験した
恩寵と同時に信じがたい悲劇に、
私の魂は長く引き裂かれ、その傷は
癒しがたいしこりになっていました。
随分長く取り組んできて、
今では大分癒えてきたのですが、
それでも本当に神の恩寵に
自身のすべてを委ねるところまでは
行っていなくて、
導きがあると言っても、
最後は結局自分で何とかしないと
いけないんでしょ、とどこか
切り離したところがありました。
つまり、信用していないんですね。
その部分を素直に認めて、
本当にそうなのかどうか、と
ギリギリのところを見つめてみました。
私が本当に窮地に陥った時、
それでも神を見失わずにいたならば、
どうなっていたのか。
肉体も精神も、崩壊していく中で、
私が神を見限らずにいたならば。
ちゃぶ台返ししたくなるような
ざわざわ感を受け止めながら、
そのエネルギーの中心に下りていきます。
かつて体験した
肉体的、精神的極限の苦しみの中で、
私はあらゆるものを呪っていたのだな
とわかりました。
自分のエネルギーフィールドの中に、
何重にも呪いのエネルギーが
浮上してきました。
そして同時に、引き裂かれていく
肉体と精神の隙間に、
何か異質な存在の気配も
ふと感じられました。
神が本当にどんな時も
私から離れずにいるというのなら、
あの体験を、神は私とともに
どんな風に体験したのか。
それを本当にこの身で感じるまでは、
信用できない。だから必ず
見届けてやろうと思いました。
その体験をやり直していると、
体の中でものすごくエネルギーが
動きました。
感情解放ワークをしても、
初期の頃はエネルギーが目まぐるしく
噴き上がり、動いていましたが、
最近ではここまでエネルギーが動く
ことはなくなっていたので
久しぶりの感覚です。
第1から第7チャクラまで、
これまで閉じていたルートに
エネルギーが抜けていったような
感覚がありました。
その時に、封印されていた
様々な思い、記憶が浮上してきました。
神は、人に都合の良いことばかりの
存在ではない。そういう概念を
はるかに超えている。
そんなことも少し感じました。
エネルギーが抜けたとは言え、
まだ細いところもあるので
引き続き、ワークしていこうと思います。