私たちは、何かの理由で感覚を閉ざすことが
あるのですが、リーディングをしていると、
その部分だけペタッとしたのっぺらぼうな
異質な感じがするので、それとわかります。
大抵は、何か強いストレスがかかって
それを感じたくなくて閉ざすことが
多いのですが、事故などで物理的に
閉ざされるケースもあります。
昔、家族でお世話になっていた
あるお坊さんは、若いころに事故で
頭部に大怪我をしたので、第3の目が使えない
ということを言っておられたのですが、
こういうのも何か、カルマ的なものが
絡んでいるのかもしれません。
今回取り上げたいのは
そういう物理的なものではなく、
心理的なものの方ですが、
いずれにせよ、
感覚を閉ざしているというのは
感じたくないものを感じなくて済む
というメリットもある一方、
感じたいものも
感じられなくなってしまったり、
思わぬところで支障が出てくるという
デメリットも、とても大きいのです。
ある部分を閉ざすということは、
自分という存在の一部を分離して
封印するわけです。
自分というこの存在は、
全体として一つの存在であり、
どこか一部が欠けているということは、
それはやはり健全ではありません。
エネルギー的にも、
その部分が欠けているだけで全体に歪みが生じ
本来のその存在としての魅力だとか良さが
うまく表現できなくなるんですね。
ネガティブであまり好ましくない感覚も、
実はそれはそれで、全体の中では
とても重要な役割を持っているのです。
だから短絡的に、これがなければ
すべてハッピーになる、というわけには
行かないのですね。
人間という存在としての深まりという意味でも、
これは避けがたく影響してくるもので、
閉ざしたまま深まっていくということは
ないだろうと思います。
むしろ、深まるほどに、
隠されていたもの、閉ざされていたものは
開き、浮上してくるでしょう。
そうやって、分離していた自分の一部を
再び統合していくことで、
さらに深いレベルの存在の神秘が
開いていくのです。
そういう意味でも、
感情を抑圧し、閉ざし続けることは、
霊性の深まりをも妨げることに
なるだろうと思います。
だから、受け入れ難く耐え難い
感情を封印していたとしても、
人生のどこかで再びそれに直面し、
統合していかねばなりません。
今、感じなくて済んでいるものを
感じるようになってしまったら、
あなたはどうなるでしょうか?
気が狂いそうでしょうか。
立っていられないほどのショックを
受けるでしょうか。
泣き崩れてしまうでしょうか。
辛すぎて、身動きが取れなくなるでしょうか。
怒りに我を忘れますか?
激しく、わかりやすい感覚から
微妙で気づきにくいけれど、
知らず知らずに身をよじって
逃れようとしている感覚まで、
逃げずにきちんと直面し、
受け止められるようになると、
鉛を飲んだような重苦しさも消え、
どんなにほぐしてもほぐれなかった
芯の緊張が緩み、
この現実、この世界に生きていても
大丈夫になります。
一刻も早く脱出したいような、
先の見えない真っ暗なトンネルを行くような
焦燥感や圧迫感、言いようのない苦しみも
消えて、リラックスしていられるように
なります。
誰かをコントロールしようとしなくても
自分の世界は平和で穏やかです。
誰かや何かに八つ当たりをして
ストレスを発散する必要もなくなります。
人に向き合っても、
自分らしく自然体でいて、
適切に応答できます。
いつも自分が傷つかないように、と
身を固くして身構えている必要も
ありません。
感覚を閉ざして避けようとしたものは、
外側の要因によって生じたのではなく、
既にそれは、自分の内側にあったのです。
だから、どんなに閉ざしても、
根本的に苦しみの原因は自身の内にあるので
安心できないんですね。
抑圧された感情を統合していく作業を
私はよく、地雷の撤去作業にたとえて
お話しするのですが、
晴れ晴れと安全安心に地雷撤去済みの
心の平野を、のびのびと生きたいものです。
そうして、この世界が安心で安全なもの
として生きているとき、
感覚はさらに研ぎ澄まされて、
新たな境地が開けていきます。
結局、そうやって到達した世界は、
あなたがずっと体験したかった
ワンダーワールドなのではないでしょうか。
閉ざした感覚を開くカギは、
感じたくなかったもの、です。
あますことなく、それらを統合できたとき、
ずっとほしかった理想以上のものを
手にしている自分に気づくでしょう。