人生、何かあってもなくても、
お題というものは溜まっていくものだな
と思うのですが、近ごろ、色々
宿題を溜め込んでおります。
しかも、諸々の諸事情から
それらの処理速度がものすごく遅くなっていて、
日々のルーティンをこなすだけで
精一杯な感じです。
この夏の暑さのせいもあるのか、
はたまた、見えない領域での地球規模での
大変革の影響もあるのかないのか。。。
とにかく、できるだけ粗相のないよう、
慎重に進めております。
(と言っても、元々愚鈍でそそっかしい質なので
どうにも修正しきれないものはあるのですが。)
日々のセッションの中で、
これには一体どう対応したら良いのだろう、
もっと良いアプローチの方法がないだろうか、とか
全く道の見えないところに、
道を開いていく方法を模索していく
というのは毎度のことなのですが、
なんとな~くやってみたらできちゃった
というときもあれば、どれだけ意識を凝らしても
さっぱりわからん、というときもあり、
そういうときは宿題となって
先送りになります。
要は、その問題となっているものの
根幹を捉えられれば、大体何とかなるのですが、
それが捉えられないときに、もがきますね。
表に見えている症状が良くなれば
それで済む時もあれば、もっと深く捉えて
根本的に対処していかなければいけないときもあり、
後者の場合は、その全体像をどこまで見られるか
というのも大きな課題です。
ある程度対処できていたとしても、
もうひとつ、何か大きな視点が必要な感じが
するときもあるのですが、いかんせん、それが
雲をつかむような話に感じるときもあります。
多分ものすごく大きな領域の話なのだけれど、
自分の前に実際に見せられているのは
ほんの一部、氷山の一角にもならないような
現象だけで、その奥が計り知れない。
それを構成する道理というか、筋のようなものが
つかめればいいのでしょうけれど、
まだまだ精進が足りませんね。
私には、ヒーリングの師匠はいなくて、
この仕事を始めた初期のころに、
様々なテクニックの基礎をあちこちで学んで
プレゼンス(意識の目覚め)の教えを
レナード・ジェイコブソンに学んで以降は
独自路線を貫いてきたので、基本は
アウトサイダーなのかもしれません。
霊性修養においてはどこにも属さない
というこの在り方は、メリットもあり
デメリットもあります。
どこかの霊統の正当な系譜に属していれば、
その霊統自体から受け継がれた恩恵にも
預かれますし、護られる部分もあります。
けれど、それも相当に厳しい修養の道なので、
ぬくぬくとはしていられないでしょうけれどね。
一匹狼でいるのは、気楽だけれど、
己の才覚一つという部分はもちろんあるし、
道を外れずに歩むことも、全責任は
自分にあります。
怠けようと思えばいくらでも怠けられるし、
ストイックに厳しくいこうと思えば
そういう道も行くことはできます。
よからぬ道に堕ちるのも、
善き道に徳を積むのも自分の思い一つで、
その辺の識別、判断力は、
指導してくれる人を持たない分、
注意深くいないといけませんね。
だからこそ、周囲に忌憚なく厳しいことも
言ってくれる友人知人がいてくれる
人間関係を構築することが大切だと
私は思っているのですが、
今の私がどこまでできているか、
支えてくださるみなさまのお声を聴きつつ、
歩んでいこうと思います。
自分のことは自分ではなかなか
見えないものだし、どんなに優れた人でも
必ず死角はあります。
そこが死角になっているということに
どうやって気づき、どう対処できるのか。
他者の心ある諫言は
心を乱すものであったとしても
受け取るべきものだし、
一方で、
己を試すためにそういう人から
揺さぶられる言葉をかけられるという
魂の試練の場合もあります。
それがどちらであるのか、
自分の中で、しっかりとした基準を
持っていなければなりません。
ただ己のエゴのために頑なになっているだけなのか
そのことを通して、さらに貫いていくべきものを
確立していくときなのか。
貫いていくべきものがあるなら、
その根拠となるものをさらに確たるものにし、
基盤とするのに耐えうるものに育てていく
プロセスがあります。
そのように叩き上げ練り上げられていくのに
耐えられないものは、やがてそぎ落とされ、
真価が自ずから明らかになるでしょう。
大器なる人は揺らがないのではなく、
揺らいでも、その揺らぎのエネルギーを
上手に良い形に昇華させられる人
なのだと思います。
揺らぎながら、様々な景色を見て
色々なものを受け止めながら、
なお留まらず、流れ続けるように。
未消化なものが色々あって
すっきりとしないのですが、
そういう今の状態も含めて、
味わって生きていこうと思います。