最近、朝の日課に加えた
ちょっとした習慣があって、
なかなかいい感じがしています。
それは、自分自身の命、人生、体、仕事、
友人たち、家族、この世界、きょう一日など、
思いつくものを祝福するということです。
ほんの1分もあればできるので、
忙しい朝でも苦になりません。
祝福するというのは、
あまり宗教に縁のない人間にとっては
ピンとこないことかもしれませんが、
実はとても大事なことだと思います。
祝福する、つまりは
その存在がそうであることを祝う
というようなことだと私は理解していますが、
たとえば、
自分の誕生を祝福してもらうことは、
この世界に喜んで迎え入れられたという
安心感と、自己肯定感につながります。
逆に、自分の誕生が喜ばれなかった
という事実は、その人の人生の根幹に
とても暗い影を落とすのではないでしょうか。
だから、
その存在が在るがままに祝われるというのは、
ものすごく大事なことだと思うのです。
セッションでも、私はよく、
その人自身が、自分を祝福するよう、
誘導することがあります。
自分が嫌いで、
どうしても受け入れられなかった人が、
色々統合ワークを進めてきて、
少しずつ自分と和解してきた段階で、
色々あったけれど、
ここまで生きてきた道のりを祝福し、
まだまだ未熟さや至らなさが見えたとしても、
今こうしてある自分を祝福する、
ということをしてもらいます。
たったこれだけのことだけれど、
自分を責め、否定し、思うように服従させようと
戦ってきたその対立が、その瞬間に終了し、
和解していくんですね。
自分にひどいことをしてきたと責めることもなく、
これまで、間違った方向かもしれないけれど
頑張って積み重ねてきた歩みを否定することも
しないで、それらすべてを肯定して、
新しい在り方にシフトしていく。
この祝福するという行為は、
その転換をうまくまとめて、
平和裏に進める魔法なんですね。
それは、単に認める、受け入れるとも違って、
喜ばしいものとして肯定する、というような
ニュアンスもあるような気がします。
今あなたは、何のためらいもなく、
自分自身を祝福できますか?
自己肯定感が著しく低い人や、
自分を呪っている人、嫌いな人は、
「私は自分自身を祝福します」
というたったこれだけの言葉を言うのが
ものすごく苦しかったり、どうしても
言えなかったりします。
簡単に言える人には、
どうしてたったこれだけの言葉が言えないのか
と不思議に思うでしょうけれど、
それだけのものが、その人の背景には
ずっしりとある、ということなんですね。
これもできない、あれもできない、
だってこんな自分だし、許されるはずがない、
というか、だれが許したとしても、
自分が自分を許したくない、何が何でも。
っていう人、いるんですよね。
どうしてそこまで、自分を責め苛むのか。
中には、自分ではない存在が
せっせとそんなネガティブな思念を
掻き立てている、なんてケースも
結構あったりしますが、
そんなことをしながら、
楽になりたい、幸せになりたい、
ともがくのは、大いに矛盾してますよね。
本当に幸せになりたいのなら、
自分自身を呪うのをやめて、
自分が自分の人生を生きることを
妨げないことです。
それだけでも、どれほど違うか。
そのうえで、
自分の人生をのびのび生きて、
力を発揮することを、
喜ばしく祝うことができたなら、
どれほど人生は輝くでしょうか。
それは、誰かにやってもらわなくても、
まず自分が自身にしてあげることが先決で、
これは、自分さえその気になれば、
今この瞬間にでもできることですね。
お金も道具も必要ありません。
心からできなくても、
今の自分ができるところからでいいので、
一歩を踏み出してみたらいい。
そのうちに、その言葉が
より深いところからの響きで言えるように、
少しずつ自分と和解していったらいい。
祝福は、恨みや対立を超えて、
両者を別の次元にシフトさせます。
そういえば、昔、オノ・ヨーコさんが
夫のジョン・レノンが亡くなって
ものすごいバッシングを浴びていた時に、
彼女は自分をバッシングしている人たちの
名前を挙げて、一人ずつ、ずっと
祝福し続けていたのだそうです。
そうしたら、いつの間にか、
バッシングが止んでいた
という話をどこかで見かけました。
うろ覚えの記憶なので、
間違っているかもしれませんが、
あの熾烈なバッシングの最中、
彼女はどれだけ辛かったでしょう。
その中で、そういうことができた
というのは、なかなかにすごいことだな
と思いました。
感謝ともまた違う、
祝福することの意義を、
あなたもぜひ感じてみてはいかがでしょうか。