私たちが何か行動を起こすとき、
不安から動くか、そうすることが
心地良いから、という理由で動くかで
その行動の意味合いがまるで違います。
そうしないと大変なことになってしまう!
という動機で動くと、
結果にもその動機の種が
含まれてしまうのですね。
同じように、心地良さ、安心から動けば
結果にもその心地良さや安心の種が
入ります。
行動の結果が同じでも、
そこに含まれるものは、まるで違う
ということがあるのです。
もちろん、行動の結果には、
そこに至るまでに様々な要素があるので、
そこだけで容易く割りきれるものでは
ないでしょうが、
自分がどんな動機から
その行動を起こしたのか、
という視点で見ていくと、
何か気づくことがあるかも知れません。
ひょっとしたら、
心配性で、いつも不安に駈られて
その不安解消のための行動で
日常や人生のほとんどが埋まっていたり、
なんてしていないでしょうか?
あるいは、もう少し詳細に見て、
自分には何に対する、どんな不安が
常に、大きくあるだろうか、
と見ていくのも、非常に大きな
気づきがあると思います。
自分にとっての大きな不安の奥には、
人生に起こった出来事の意味を読み解く
マスターキーがあるかも知れません。
なぜ自分はあのときに、
あんな選択をしてしまったんだろう。
どうして、自分の人生にはこんなことが
繰り返し起こってくるのか。
他の人にとっては、
大して問題にもならないことが、
なぜ自分はこんなにもどうしようもない程
反応してしまうのか。
みな、故なくそうなっているわけでは
ないのです。
心はプログラムのようなもので、
良くも悪くも、刻まれたものが
再生され続けます。
だから、生き辛いのなら、
刻まれたものを変えればいいのです。
それが、癒しの作業であったり、
書き換えと言われるものだったりします。
ただし、心は非常に複雑な構造があるので
根の浅いものであれば、ちょっと
いじれば簡単に変わるけれど、
根の深いものは、
様々な要素のつながりを見ながら
こじれたものを解いていかないと、
なかなかうまくいきません。
一部だけ見て、これ要らないから!
と捨ててしまったものが、
実は別の面から見たら、
自分を守ってくれていたとかは
ざらにあります。
その要素ゆえに
生き辛くなっているとしても、
それを外すには、
それがそこにある理由を
解消してやらなければなりません。
どうして自分の足で立たないのか!
といくら叱責しても、
足の骨が折れているのかもしれないし、
立つとみんなよりも飛び抜けて
背が高いので、目立ってしまうのが
嫌なのかもしれないし、
自分で立つと、大切な人を置いていって
しまうような淋しさと罪悪感を
感じているのかもしれません。
あるいは、
立つことは悪いことなのだと、
陰に陽に暗示をかけられ、
虐待された心の痛みが呼び覚まされるのが
恐いのかも知れません。
表面に表れているものだけ見て
それを責めたり、非難して
変えようとしても、
できない理由、
今そのようになっている
深い深い事情があるのですよね。
だとするならば、
その深い深い事情まで寄り添って、
本当に理解した上で、
そこに責任を取らないと、
変わることはないのです。
これ、他者に対しても、
自分に対しても、同じです。
パートナーや子供、友人、上司や部下、
親戚やご近所さんなどなど。
日常には、あなたの気持ちを不穏にさせる
役者さんたちが目白押しでしょう。笑
彼らは、みなあなたの心の中の構造を
開いて見せてくれている、
気づきのメッセンジャーです。
まぁ、多くの場合、そんな風には見えず、
厄介な問題児にしか、見えなかったり
しますけれどね。
そういう、自分の内外のモンスターたちの
事情に深く学び、本当に理解できると、
あなたの生きる世界は、劇的に変化します。
訳がわからないままに
翻弄されるだけだったから、
被害者になるしかなかったことも、
何にどう対処したら良いのかわかるように
なるのです。
あれほど、毎日が不安で不安で、
どうか今日は嫌なことがありませんようにと
祈りながら生きていたのが、
自分の人生を信頼し、
世界は親切で、生きるに値するもの
になるのです。
だから、今、
何かが不安で仕方がないのだとしたら、
それはどこから来るのだろう?
人生でその不安は何度も味わってきた、
馴染み深いものではないだろうか?
って、よ~く確かめてみてください。
その不安をしっかり受け止めて、
統合したところから世界を改めて見たら、
それほど不安ではなくなるでしょう。
あなたはただ、
自分の内側に長年押し込めてきた不安を
目の前に投影して、不安な世界を
見ていただけなのです。
その不安はどこからやって来るのか、
と問うことは、今の時代を冷静に見て、
行動するために、大切なことだろうと思います。