人生を生きていると、人は皆、決して平等ではない
という現実を否が応でも目の当たりにします。
それは良い意味でも悪い意味でも言えることで、
平等は理想であるけれど、決して実現しえない
幻想でもある、ということを受け入れざるを
得なくなるのです。
誰もが平等ではないからこそ、
得意不得意を互いに補い合い、
個人を越えた素晴らしいものが
生み出されたりするし、
自分や他者の違いであるところの個性に
気づき、リスペクトする意識も生まれます。
他者と違っている、ということは、
本来決してネガティブなことでは
ないのです。
自分の状況に、他者には無い困難があったとして、
それを嘆くこともできるけれど、その茨の道を
行くからこそ知ることのできること、
身に着くものがあります。
その困難な道を歩んでいる最中には
なかなか希望を抱くことは難しいかも
しれませんが、着実に積み重ねたものは、
必ず結実するときがやって来ます。
そういうことを踏まえた上で、
次のことを語りたいと思います。
何かの学びやお稽古事をするとき、
あるいはセッションを受けるなどの
取り組みをするとき、
すぐに結果が出る人もいれば、
人の何倍の努力をしても、
なかなか成果が出ない人もあります。
それは、そもそも、一人一人の
スタート地点が違うからです。
ある人は、それまでの積み重ねの貯金が
もうすぐ満額になるところまで
既に来ていたのかもしれませんし、
ある人は、過去の重い負債を背負って
手かせ足かせをつけてやっとここまで
たどり着いたのかもしれません。
重い負債を背負った人は、
まずは手かせ足かせを外す作業をし、
その負債を清算する作業に取り掛からねば
なりません。
当然、そのプロセスは、
もうすぐ満額貯金を受け取れる人
と同じであろうはずはありません。
それを、ものすごく不公平に思って
世の中に見捨てられたように
感じてしまう人もあるでしょう。
そうして、ふてくされ、投げ出してしまう
こともあるかもしれませんが、
それは単に、時間軸の問題です。
もしあなたが、
真面目に自身の為すべきことを為し、
粛々と歩むなら、他者に後れを取り、
永遠に劣等生であり続けるかのような絶望も、
やがて目に見える成果となって
その実が結実し始めていくと、
嘘のように癒され、消えていくでしょう。
自信とともに、安らいだ心には、
自分の運命や置かれた状況を受け入れ、
信頼する平穏や幸福感が感じられる
ようになります。
その状況になったとき、
あなたの周囲には、ひょっとしたら、
かつてのあなたのように、劣等感に苛まれ、
あなたを羨みつつ、焦燥感で一杯の
後輩がいるかもしれません。
そんな後輩に対して、
茨の道を歩んできた先輩であるあなたは、
後輩の苦悩も絶望も、我がことのように
理解できるでしょう。
そして、それを受け止めた上で、
もし必要ならば、励まし、手を差し伸べることも
できるようになっているのではないでしょうか。
そのときあなたは、かつてあなた自身が
ずっと先を軽々と歩んでいるように見えた
あの人たちと同じところ、あるいは
それ以上のところに、すでに自分が
到達していることに気づくでしょう。
あなたは、何ら見捨てられた存在
ではないのです。
ただ、自分がふてくされて
人生を投げ出したら、
あなた自身が人生を見捨てている
ことになります。
そうして、見捨てられた人生は、
途方に暮れ、力なく絶望するしか
ないのです。
結局は、自分自身がやったことが
自分に返ってきているだけのこと
なんですよね。
自分が逃げたりごまかしたりしたのなら、
その部分の機能不全が結果として
返ってきますし、
いくらなりたい理想があったとしても、
今人生から差し出されているメッセージに
応答できなくては、その理想を実現する
土台も築けないのです。
背負っているものが大きすぎて、
歩んでいくにも傷だらけで歩む力のない
状態の人もいます。
であるならば、その状態に対して
為すべきことがあるでしょう。
傷の手当てをし、立ち上がる力を
しっかり貯められる状態に
自分を整えなければいけません。
そうしておいてからの、
様々な修練やチャレンジなのです。
だから、人それぞれ、
そもそもの履修過程が違うのです。
自分に今何が必要で、
何が必要ないのか。
誰かがもうこんなことをしているから
自分も!と焦る必要はないし、
それがわからないのなら、知る努力を
するべき時なのです。
唯一無二の道を行く、
あなたの今に、心からの祝福を。