私たちは、何か手痛い失敗をすると
反省したり、させられたりしますね。
けれども、
その反省の中身を良~く振り返れば、
失敗の動揺から自分を責め苛んで、
とにかく自分はいけなかった!と
自己否定を繰り返すだけだったりしますね。
反省の目的が、二度と失敗を繰り返さないため
なのだとすると、自責の念も自己否定も、
根本的な対処にはなりません。
むしろ、失敗の原因を正しく認識して
適切な対処をしていないのなら、
それらは逆に、「蓋をしているだけ」
になります。
失敗に対して適切に対処するのが難しいのは、
心が非常に動揺していることが
大きな要因となっているでしょう。
動揺しているから、
まさに失敗している場面や、
そこに至る自分自身をまともに
見つめることができないのです。
ここが結構重要なポイントで、
失敗を糧に変えられる人は、
無様だったり惨めだったり
情けなかったりする自分自身に
直面する精神的なタフさと冷静さを
持っているんですね。
で、失敗の原因を辿っていくと、大概
一番見たくない、否定したい自分が
ポイントになっていることが多いです。
ここに直面するのは、
本当にしんどいのですよね。
物理的に、心が苦しいわけです。
だから見ようとすることを避けたくなる。
けれども、その苦しさを受け止めつつ、
無様だったり惨めだったり、ズルかったり
自分の理想とは逆の自分をガン見するわけです。
その時自分の心の内には
どんな思いや気持ちが起こっていたのか。
どうしてその行動をしたのか、
あるいは、しなかったのか、
などなど。
自分の内外で何が起こっていたのかを
正確に捉える必要があるのです。
感情解放のセッションでは、
命の呼吸をしたりヒーリングのエネルギーを
送らせていただきながら、その苦しさを緩め、
直面しやすい状態を作っていきます。
そのうえで、その時、
その人が何から逃げていたのか、
何に囚われていたのか、
どんな影響を受けていたのか
などを探っていきます。
それらは、正常な判断からの行動を
ゆがめていく要因になっているので、
これらの影響をクリアして行かない限り、
また同じような状況でミスを繰り返して
しまうでしょう。
なぜなら、インプットされた刺激に対する
反応プログラムが出来上がっているので、
アウトプットされる言動も、
そのプログラム通りにしかならないからです。
人の言動に影響を与えるものの一つに
恐怖、恐れの感情がありますが、
執着も、言ってみれば恐れのバリエーション
と言えます。
だから、私はしばしば
自分が何を恐れているのかを知ることについて
書いてきています。
人間は、恐れに対して本能的に
逃げ出したくなるものです。
だからそれに向き合うことが難しいのも
当然です。
ここで、以前にも書きましたが、
「逃げること」と「適切に対処すること」を
混同する向きもあるので、これは明確に違う
ということは念を押しておきます。
逃げてはいけないと言って、
退避すべき時に踏みとどまるのは
適切ではないし、
逃げることは悪くないんだ、
という自分に都合の良い解釈で、
本当に直面すべきものを放り出すことも
適切ではありません。
いずれにせよ、
恐れを統合できれば、
自分が見ている景色はそれほど
恐いものには見えなくなるでしょう。
その状態なら、刺激に変に反応することもなく、
落ち着いて別の選択が自然にできるように
なります。
逆に、元の選択をする方が
不自然に感じられるでしょう。
この状態が、戒めがなくても
過ちを犯さない自分
ということになります。
頭でがちがちに○○しないように、
とインプットし、矯正しようとしても、
過ちを犯すような自分の中のプログラムが
そのままでは、無理やりそれを押さえ込む
戒めが必要になります。
つまり、戒めが必要ということは、
過ちの種は依然として存在し続けている
ということになります。
そして、戒めの力が何かの要因で
外れたり、それを越える力によって
押し切られたとき、過ちは繰り返されるのです。
戒めはある意味、制限でもあるので、
自分の中に不自然なブロック状態を作ります。
それが強力であればあるほど、
本来の自分は押さえつけられるストレスも
意識、無意識的に抱えますし、
人間存在は、部分の集合体ではなく、
全てが有機的に繋がった存在ですので、
様々な機能不全を引き起こします。
もちろん、エネルギーロスも大きいです。
故に、戒めをして正しい自分になるのではなく、
戒めがなくても過ちを犯すことのない
自在な自分であることの方が、
ずっとのびのび生きられるでしょう。
失敗してただ自分を責めるだけの反省が
いかに無意味であるかを知って、
失敗を糧にされますように。