人間のどす黒いもの、ドロドロした側面を見る
ということは、なかなかに辛いものです。
内観に限らず、世の中の暗いニュースは
心を重くするし、その内容のネガティビティが
強ければ強いほど、目をそらしたくなって
しまうものです。
けれど、
目をそらしてばかりいられないときも
ありますよね。
たとえば、近所で子供を狙った
とんでもない凶悪犯罪が起こったとします。
お子さんをお持ちの親御さんだったら、
恐い!嫌だわ。で済ませられること
ではないと思います。
どうやったら自分の子供や地域の安全を
守れるのか。差し迫った問題として捉え、
全力で危険を回避しようと行動するでしょう。
恐いけれど、きちんと何が起こったのか
詳細が知りたいと思うだろうし、そのうえで、
自分たちに何がができるのか、周囲と一緒に考え
対策をしようと思うでしょう。
蓋をして、不幸が自分たちの上を
静かに何ごともなく、通り過ぎてくれればいい
何ていう態度で自分や大切な子供が守れるとは、
ほとんどの人は思わないと思います。
それが、まさに自分たちの身の安全に
直結しているからです。
けれども、これがひとたび
自分たちとはさほど関係がないことだと
認識されると、人はどれほど近くで
起こったことであったとしても、
途端に無関心になれるものです。
基本、私たちは、不快な思いは
できる限りしたくないのです。
それが良いとか悪いとかではないのですが、
ネガティブなことに向き合うには、
それなりに精神的な負荷がかかります。
本当は自分にもよほど関係があるのに、
まるで関係がないことのように
心の中で切り離すことによって、
その重くのしかかる負荷から逃れよう
とする防衛機能が働くことがあります。
このことが、
目の前に差し迫った危機があるのに
まともに見ることができない、考えられない、
行動できない、と言う状態につながるのですね。
心が重苦しくなる問題に向き合うよりも、
テレビをつけて、お笑いやバラエティーなど、
気楽な番組を見て笑っていた方が、
ずっと楽ですからね。
お笑いを見ることが悪いと言っているわけでは
まったくないのですが、
現実逃避をしているばかりでは、
やがて自分の世界が崩れていくその瞬間まで、
眠りこけていることにならないだろうか、
と思ってしまうわけです。
巷にあふれるスピリチュアルには、
ワクワクすること、ハッピーで居ることに
非常に偏向していて、そうでないことを
殊更、見ないようにする向きも
大いにあるようです。
ハッピーで居ることに異論はないけれど、
同時に、そうでないことも同じくらい
しっかり見て、受け止められないと、
現実離れした空想の世界に生きることに
ならないだろうか、と思います。
そういう偏向性のあるスピリチュアルも、
ある意味、「仕掛けられた罠」の側面も
あるのかな、と考えたりします。
私は元がネガティブ人間なので、
そうそうハッピーキラキラ路線では
いられない性分なのですが、
自分の幸せの陰で、これまでも、この瞬間も、
日夜重荷を背負って活動してくださっている
存在たちの努力を忘れて、その恩恵だけを
掠め取るような在り方はしたくないな、
と思うのでした。
たとえば、
水道の蛇口をひねれば水やお湯がすぐに出て、
電気のスイッチを入れれば電気がつく。
駅の構内はいつもきれいに清掃されていて、
電車が定刻通りにやって来る。
日本では当たり前で、そうでないと
クレームが入るような社会ですが、
こういうインフラ維持のために
どれだけ人たちが、どんな仕事をして
これらを支えてくれているのか、
ひとたび災害が起きたときに、
それが復旧されるまでにそうした人々が
現場でどんな危険を冒し、努力をして
私たちの生活を取り戻すための
活動をしてくれているのかなど、
想像力を働かせれば、今この瞬間に
どれだけの恩恵を受けて来たのか、
気付くことがあるでしょう。
日常、忙しく過ごし、
自分の生活で精いっぱいの中でも、
そういうことを考えられる意識を普段から
養っておくと、
自分自身を、この社会を構成している
一因子として捉えられると同時に、
無関心なものをバッサリと切り離して
分離させるという、ある種の無責任な在り方も、
しなくなっていくでしょう。
もし仮に、
私たちを都合よく操作したい存在が
いたとすると、
私たちのそうした無関心さからくる
分離意識は、非常に好都合な隠れ蓑になります。
ほらほら、眉間にしわ寄せて、
そんな苦しいことを考えなくても、
楽しくお気楽に笑っていればいいよ。
後はこちらでちゃんとやっておいてあげるから。
面倒くさいことが嫌いで
そこそこ楽しく過ごせればいい
と言う人にとっては、
何と渡りに船な提案でしょうか。
ひとつ、難を言うとすれば、
あちらの言う「ちゃんとやっておいてあげる」
というそれが、自分が思う通りのものである
という確証はまったくない、ということです。
自身の内外の否定的なものに向き合える
心の強さを、養っておきたいものです。
私たちは、
しっかりと目を覚ましていなければいけません。