今日は羞恥心について、
思うところがあったので書いてみます。
日本は恥の文化、と言ったのは、
アメリカの人類学者ルース・ベネディクトでしたが
何かを恥ずかしく思うことは、
自身の言動への強烈なブレーキであったり、
制限になったりします。
それが良い方向に働けば、
道徳観や倫理観などから、
人の道を正しく歩むよすがになりますが、
良くない働きをすることもあって、
それが隠蔽や嘘に繋がることもあります。
感情解放ワークにおいては、
しばしばこの思いが封印や蓋になって
強烈なロックをかけてしまうことがあるので
人によっては、かなり手こずることになる
こともあります。
(私が、というより、その人自身がね)
そもそも、恥と言うのがどういう構造に
なっているかと言うと、
まず、在るべき理想像があって、
それに対して自身の在り方が外れているときに、
その自分を恥ずかしい、と感じるわけです。
そこに、ある種の価値観の枠組み、
ジャッジメントが働いていますね。
この枠組みというのも様々なレベルが
あると思うのですが、民族の文化的に
深層意識に深く根付いたものもあれば、
みんなが持っているものを持っていないとか
学校の成績が良くない、運動神経が悪い、
自分の容姿を醜く感じるなどからくる
羞恥心もあります。
こういうのは一括りに同じ枠組みで
語るのはあまり適切ではないかもしれませんが、
感情解放ワークの視点から、羞恥心が一般に
どういう影響を及ぼすのかを書いてみます。
たとえば、
人前で泣くこと、取り乱すことが恥ずかしい
と感じる場合、それを抑圧するでしょう。
後で一人になったときにその感情を
自分で受け止めて解放できるなら
まだ良いのかもしれませんが、
そもそもそれらの感情をジャッジメントして
抑えている、ということ自体、
そこに何らかの恐れがある、
ということを見過ごすことはできません。
人前で泣いたり取り乱したりすると、
無防備に感じて恐いとか、
弱いと思われて馬鹿にされるなどが
屈辱的に感じることを避けている
のかもしれません。
あるいは、
人からこう見られたい、という自己像が
壊れてしまうことへの恐れ、
というのもあるかもしれませんね。
こういうのは根本的に、
みな外側の人に自分自身を投影しているんですよね。
つまり、
弱い人を攻撃するとか、馬鹿にしているところが
自分の中にある、ということだし、
理想像から外れた人を、
全く評価しないとか、何か色眼鏡で見るとか
変に蔑んで見ている自分がいる
ということを意味しています。
だって、世間的に見たら、
誰だってそう思うでしょ、という理屈を
ここに持ち込むのは意味がありません。
あくまで、ワークで注目して見ていくのは
「自分にとってどうなのか」という一点のみを
追っていくわけで、
世間が、他の人がどうこうという理屈を
持ち出すのは、本質から目をそらすための
逃避であると心得ましょう。
話は戻ります。
羞恥心が厄介なブロックになるのは、
そこに外からの視線に自分で
大きな力を与えているときです。
どういうことかと言うと、
例えばあなたは泣くことが恥ずかしい
と感じているとします。
けれど、他の人はそんなこと、
大して気にもしていないし、
いじめてやろうとか、馬鹿にすることもなく、
ただ在るがままにあなたを受け入れている
のだとすると、
一体自分は何を恐れていることに
なるのでしょうか?
思ったような自分でなかったとして、
外の人のあなたの評価が
どれだけ変わるのでしょうか。
そもそも、
周囲の人はあなたをあなたが思うような人だと
受け取っているのでしょうか。
ひょっとしたら、
あなたは裸の王様なのかもしれません。
まぁ、どちらにせよ、
あなた自身が自分のその要素を
受け入れようが受け入れまいが、
それはあなたの一部として厳然として
そこにあるわけだし、
知られようが知られまいが、
そういう自分である、ということに
違いはありません。
さらに言うならば、そういうあなたを、
周囲の人がどう受け止めるかは、
その人自身の問題で、あなたがコントロール
すべきものでも、またできるものでも
ないのです。
あなたはただ、
そのような自分としてそこにいる
というだけです。
そして、変えられるのは、
そんな自分に対する、自身の見方です。
ここで、自身の要素を否認し、隠そうとすると、
そこに魔が入ってくる、ということを
強く注意喚起しておきます。
隠そうとすればするほどに、
羞恥心は自分の首を絞め、
周囲から孤立させ、固く心を閉ざさせます。
そして、隠蔽するために嘘をつき、
鉛を飲んだような苦しみを延々と
耐え忍ばなければならなくなります。
封印して無かったことにしたものは、
無いのだから癒すことも統合することも
できなくなります。
ただ、蓋をするだけなのです。
この苦しみから脱出したいのなら、
その自分を明らかにして、
受け止めることです。
すると、自分の首を絞めていた呪いは
その瞬間に力を失い、霧散します。
切り離されていたつながりも戻ってきます。
魔の力は、嘘をつき、孤立させ、
闇へ闇へと誘います。
このことを良く覚えておいてください。