人の心が深く傷つき、疲れ果てて
もう一歩も前に進むことができなく
なるときがあります。
心に処理しきれない
たくさんの思いに飲み込まれて、
あるいは囚われて、
歩くことを止め、
そこに留まることを
選ぶのです。
そうしてその魂は時間を止めて、
長いことそこに留まります。
肉体が死んでいれば、
その魂は地縛霊とでも呼ばれる
存在になるのでしょうが、
生きながらに、地縛霊の如く、
多かれ少なかれ、一部か、全部か、
心の時間が止まったままの人もいます。
魂の長い歩みの中で、
数十年、数百年、あるいは、
数千年も時間が止まったままで
いたりします。
その状態が良いとか悪いとか、
傍からどうこう言うものでもない
と思いますが、
自分の一部がそのような状態であるが故に
今この人生を思うように生きられなくて
もがいている人も多くいます。
そういうもがき苦しむ思いが、
深い眠りに入り込んでいる自分の一部を
揺り動かすのか、
自ら止めてしまった時間の流れを
再び取り戻さなければいけないのかも
しれない、とじわじわと葛藤を
呼び起こすことがあります。
そうなると、もはやこれまでのように
深い眠りにまどろみ続けることは
できなくなっていきます。
放っておいてくれ。
誰にも触れられたくない。
と、固く閉ざした心の内側から、
開くことへの必然性の種が
ジワジワと厚い扉を侵食していくのです。
本当に閉ざし続けるべきであるのなら、
そんな葛藤を吹き飛ばしてさらに
深い眠りにはまっていくのでしょうけれど、
そういうときばかりでもないようです。
もはやかつてまどろんでいた場所は
居心地の良さを失い、どこか居心地が悪くて
安らぐことができません。
そうして魂は、再び命の流れに
戻っていくことになるのです。
長いこと眠り続けていた魂は、
何を頼りに歩みを進めて行けば
良いのでしょうか?
これはしばしば、
分離や抑圧から解かれた私たちが
直面するテーマでもあり、
ここが不安だから、踵を返して
やっぱり眠って居よう、という
心理が働いてしまうところでもあります。
本当は、眠りから覚めて
魂が命の奔流に戻ってくれば、
おのずと分かるはずのことなのですが、
うまくそれに接続しきれないときに
戸惑いを感じるようです。
どういうときにそれに接続できなくなるか
というと、眠りから強制的に追い出されても、
自分が命の呼びかけを拒んでいるとき、です。
そこに、まどろみに入る前に未完了だった
痛みの記憶がそのまま残っており、
それに直面しなければいけなくなるからですね。
どれだけ長く眠っていても、
その間にその未完了の諸々が
完了されているわけではないのです。
遠い記憶のかなたに押しやられて、
その痛みは微かになったように思えても、
ただ分離、隔離しただけだったりしますからね。
そういう未完了の傷跡が、
命の奔流に戻っていくことや
今を生きる力につながることに
影響してくるのです。
そういう気持ちや思いの残骸を、
放置して風化していくことを待つのではなく、
自分なりにケリをつけて行くことは
大事なことだろうと思います。
エネルギー的に見ても、
ただ放置したものは、微妙なレベルで
影響し続けているケースを実際に
多く見てきているので。
いわゆる、カルマの清算と言われるものは、
私の言葉で言えば、自分なりのケリをつける作業、
そしてその出来事が起こった構造全体からの卒業
とでも表現できるでしょうか。
独り善がりのケリの付け方ではなく、
魂の差し出したテーマに完全に応答することが
卒業の条件です。
それは、学校の授業の単位を取るのに
先生に採点してもらうようなものではなく、
自分自身の深いところで決めていること
ですけどね。
だから、深く深く、自分自身と
対話することが必要なのです。
自分はここから、
何に気づかなければいけないのか。
汲み取るべきものを汲み取ることが
できたのかどうか。
耳触りの良い言葉で、
何となく丸め込んでわかった風になって
心の奥でモヤモヤを抱えるのではなく、
どこまで本当に魂を貫く愛と光を
体現することができたのかどうか。
命の奔流に戻って、
そのような愛と光が深まっていくことを
どれだけ自分に許し、開くことができたか。
止まっていた時間を取り戻し、
命を吹き返すというのは
かつて、受け取れなかったものを、
もう一度受け取るチャンスに直面する
ということなんですね。
自分がそれを受け取る、と決めて、
完全に人生から差し出されたものに
深くチューニングするのなら、
それを妨げられるものはありません。
障害を越えてその先に繋がってしまう回路を
あなた自身が開いてしまうからです。
自身の現実において、
障害を障害として機能させているのも
自分自身であると知りましょう。
深い眠りから目覚めていく
すべての人に。