自立ってした方が良いと思うけれど、
その言葉を聞くと、不安と心細さで
ハートがキュ~ってなる、という方も
あるでしょう。
人間は一人では生きていけないから、
助け合って生きるものです。
けれど、不健全に依存することと、
自立の精神を持ちながら
節度を持って助け合うことは、
別のことです。
その境目や区別がわからない、
という方もあると思うので、
今日はこの辺りについて、
思うところを書いてみますね。
まず、依存する人は、自分で立とうという
意志自体がないですよね。
自立したいとは口では言うかもしれないけれど、
本気でそうしようとは思ってません。
だから、
自立に向けた取り組みを始めようとすると
なんだかんだ言って尻込みして、
いつもの依存コースに戻っていきます。
自分の弱さを直視できず、
饒舌に理想論を述べるけれども
今の自分からその理想にどのように
到達するのか、と言う部分は
まるで思春期の子供のように現実味がなく
具体性に欠け、フワフワしています。
自分の無力さに打ちひしがれていますが、
その無力さを克服していく気力を
自身の内に溜めることができず、
底の割れた器のように、エネルギーを
ただ漏れるに任せています。
そのような自分を信頼も信用もしていないので、
自分を見限っていて、だからこそ
他人のエネルギーを奪い、寄生するしか
ないのです。
一方、自立の精神を持っている人は、
根本的に自身の内に自分の人生を生きていく
ための力があることを知っています。
だから、他者のエネルギーに
寄生しようとはしません。
自分の弱さも、強さも知っていて、
誰しも万能ではないことを理解しているので、
自分に何ができて何ができないのか、
いつ、どんな風に助けを求めればよいのか
わかっています。
自分でできることは自分でしますし、
助けを求めている人がいて、
自分に何かできることがあって
助けるべき時であるなら、
節度をもってこれを行います。
いつ助けるべきで、いつ見守るべきなのか、
あるいは突き放すべきなのか、
自立している人はちゃんと見極めができます。
むやみにベタベタと
依存させるようなことはしません。
助けるときも、
その人が自分で立てるようになるための
段階に応じた助け方をします。
自立した人がどうしてこうした見極めが
できるのかと言うと、自分の内に、
自分が生きていくための力を感じているので、
相手の中にもそれを見て取ることができる、
というのが大きな理由です。
どんな状況の中に在ろうとも、
その人には自身の人生を生きていく力があるし、
どうしたらそれを引き出すことができるのか、
直感的にわかるんですね。
だから余計なことはしない。
自分の中の傷がトリガーされたが故に
駆り立てられた同情心から
むやみに手を出して、相手の自立心や
自尊心を傷つけることをしないのです。
相手が悲しみたいときは、
悲しむことを見守ることができます。
怒らずにいられぬ時は、
自分がまきこまれずに、その人が
怒りを表現することを見守ることが
できます。
その人が崩れ落ちそうになったときには
ちゃんと側にいて、自分も引っ張られずに
寄り添うことができます。
そういうことができるのは、
自分が自身の悲しみも怒りも絶望も、
受け止め、統合できているから
なんですね。
それができていないと、
相手の感情の嵐に巻き込まれて
自分もエネルギーを消耗し、
正しい判断、行いをすることが
できなくなります。
依存の在り方から
自立の在り方に転換するには、
自身の真の力につながることが
カギになります。
他者からエネルギーを奪わなくても
大丈夫な自分になる、ということですね。
それから、自身の不安や孤独、苦しみを
自分で受け止められるようになること。
大体依存する人は、依存することが絆だと
思っていることが多いです。
だから、依存を止めたら絆が切れてしまって
孤独になってしまうのが恐いのですね。
でも、依存しなくても絆は
ちゃんと構築できるんですよ。
それぞれが相手の自尊心と自立する心を
尊重し合う、清々しい関係性としてね。
そこには、他者をコントロールしようという
下心はありませんし、相手の賞賛や注意を
引こうとして、自分の意志や自由を制限する
パワーゲームもありません。
だから、自分も相手をコントロール
しないで済むし、相手からされることもなく
自由でいられます。
自分の感情を自分で受け止められる
ということが、どれほど自分を自由にするか、
わかるでしょうか。
それは、健全な自立した精神の基盤なのです。