一昨日実施した無料遠隔ヒーリング、
宇宙人に植え付けられた憎しみをベースにした
潜在意識のプログラムを辿り、
私の概念の愛と調和ではなく、
その方自身の命が本来知っている愛と調和から
書き換えていくという作業をしたのですが、
いつもよりずっと時間がかかりました。
私たちに植え付けられた憎しみの種は、
深く私たちの様々な領域に絡み合い、
他者への不信感や自尊心の欠如、
孤独や不安、怒り、混乱など様々な感情に
分化していました。
それをどこまで辿っていくか。
無料遠隔ヒーリングの範囲でやれるのは
限られていましたが、憎しみのコードの奥に
その方自身の愛と調和の光を見つけて
引き上げていく作業は、
大変だったけれど、
なかなかに興味深いプロセスでした。
この愛と調和の光こそが、
私たちの本来の姿なのだ。
そう思いながら翌朝、祭壇の前に座って
日課のジャパをしていたときに、
愛と調和、そして人生の奇跡、
という言葉が下りて来ました。
人生の奇跡。。。
そうだった。
この人生は、奇跡そのものだった。
私のこの命は、毎瞬が目の覚めるような
奇跡だったのだ。
という感覚が不意にやってきて、
その瞬間に、八ヶ岳の清泉寮での
初めてのリトリートの時の感覚が
蘇ってきました。
あの美しい、神聖な時間の記憶。
その後、何度も清泉寮のリトリートには
参加してきましたが、あの感覚が
再び戻ってくることはありませんでした。
あの、神とともに在った美しい時間は、
その後の探求の苦悩に押しつぶされて
しまいました。
それがふいに、何でもないいつもの日常に
戻って来たのです。
人生の奇跡。
奇跡のような人生、ではなく、
人生そのものが既に奇跡なのです。
私はただ、奇跡を生きたかったのです。
神とともに在る、美しい今この瞬間を。
レナード・ジェイコブソンのリトリートに
参加され、あのプレゼンスを体験された方は
わかるでしょうが、
ただ、この瞬間を生きることが、
これほどまでに美しい体験であったと、
そして、それこそが私たちの故郷、
ホームであるということを実体験として、
理屈を超えて知ることができたのは、
まさに奇跡でした。
憎しみも怒りも悲しみも、
どんなネガティブな感情も、
私は否定しないし、問題にはならないけれど、
でも、私たちの本来の故郷は、
それではないのだ、と知りました。
レナードは、神はリアルである、
と言います。
だから、私たち自身が一度それを
体験してしまえば、信じる必要はない。
知っているのだから。と。
レナードの言う神は、
いかなる宗教の神でもありません。
宗教の神は、私たち人間の概念の産物です。
けれど、リアルな神は、
概念ではないのです。
だから直接、体験可能であり、
誰もが知ることができるものなのです。
その体験は、私の人生には非常に大きな
インパクトをもたらしました。
もう神を求めて探し回ることをしなくていい。
ただ、この瞬間にいるだけで、
他は何もいらない。
とても満たされていました。
それまで、様々な「より良くなるための」
ヒーリングだの自己啓発だの、学んできましたが、
どれも心から満足することはできませんでした。
以前も書きましたけれど、
欲望自体が悪とは思わないけれど、
どれだけ欲望を満たしても、
結局、悪夢のゲームは続いていくのです。
どんなに素敵な住まいや物や飲食物を見ても、
それもいいけれど、本当に欲しいもの、
生きたい人生はそれではない、
と思っていました。
だから、どんな潜在意識書き換えメソッドも
本腰を入れて取り組む気にはならなかったし、
本当に興味を持てるものがなかったのです。
レナードのプレゼンスの教えに出合って、
神の直接体験をしたけれど、その後、
どうしてもレナードのやり方では
プレゼンスにいることができなくなりました。
レナードのやり方と言いましたが、
実際は、私自身がどうしてもうまく
それを再現できなかったのです。
私は、最終目的地は教えてもらったけれど、
プレゼンスに至る道を自分で一から
探求しなければなりませんでした。
その歩みの結晶が、今お伝えしている
感情解放ワークになりました。
そうして、もはやどうやっても
あの美しい今この瞬間の奇跡には
戻れないのだろうと思っていたら、
不意にそれが戻ってきました。
私の中の、とても根源的な欲求によって。
私はただ、人生の奇跡を生きたかった
だけなのです。
本当は、ずっとずっとそれを求めていました。
けれど、いつしかその欲求は、
何か別のものに上書きされ、
やるべきことの膨大なリストの中に
埋もれていきました。
ただ、本当に生きたい人生を
生きればいいのですね。
誰に遠慮することなく。
そのことを思い出せた、
素晴らしい一日でした。